吉原

うちの祖母は明治の人なので「男性は遊びをさせないとあかん」「赤線は殿方に必要な場所だから、今のように野放図な風俗ではなく、国が管理する公認の場が必要である」などと言う。高校生だったわたくしに向かってそんなことを言っていた。つまり、殿方は一人の女性では満足しきれない生き物であること。お妾さんを持つことの出来ない男は店に通うしかないこと。売春における病気の問題、そういう場には大抵悪人が集うので、女性達が酷い目に遭うから、役所が守らないといけない。という考えなようです。なかなか開明?な女性である。
現代人の価値とはちと違うが、祖母の娘である母は逆にどちらかというとピューリタニズムの思想があり、性に関しては多少潔癖すぎるきらいがあり、性を芸術として捉えることを教えてはくれたが、この二人の違いは、祖母に母親がいなかったこと。母に父親がいなかったことに由来するのかもしれない。祖父は若くして肺病で亡くなっているために母は男という生き物や性を概念で捉えてしまう傾向があり、理想化してしまう。祖母は逆に男という生き物をあるがままに達観して捉えている。この極端な二人に育てられたせいか、どうもついに殿方に縁のない人生を歩むことになってしまった。とほほである。
閑話休題
吉原の作法を隆慶一郎の小説で初めて知ったが面白い。たかが動物的本能を満たすための手続きが異常に煩雑である。勿論その殿方の器量によっては煩雑な場ではないところもある。そういう段階があること。より高級な女性とよいことをするには、それなりの器量を要求されるというのが面白い。それは身分など関係なく、その男性個人の器量にかかっている。だから売れっ子の花魁と遊びたくば己を磨かざるを得ない。
手順も複雑である。とにかく3回会わないとことには進まないし、その度ごとになんとなく緊張感の漂う場が続く。恋の駆け引きを高度に「道」化しているのが面白い。茶の湯のごとき精神性が要求される。なんとなく恋が芸術化された場が吉原なのだなと思った次第。
しかし、大学時代話のネタに吉原を散歩したことがあるが異様な世界であった。江戸と違い現代の吉原はバブルな建物が立ち並び黒服が目を光らせる。猥雑な歌舞伎町と違い敷居の高そうな雰囲気があった。今はどうか知らないが、まったくの異空間である。なんとなく場を支配する緊張感を感じた。
たかが女遊びに激しい緊張感を強いる。こうした風俗のありようを知っていたからかは知らないが、祖母が何故、昔ながらの芸者遊びの出来ない男を軽蔑するかなんとなく分かったような気もする。