教会と生命倫理

ぐりちゃんが教えてくれた話ですが、イタリアで最近こんなことがあった。↓

人工授精:イタリアで自由化の国民投票 賛否両論で物議
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050610k0000e030028000c.html
【ローマ海保真人】イタリアで12、13の両日、人工授精と体外受精の自由化の是非
を問う国民投票が行われる。カトリック教国のイタリアでは、人工授精は認められてい
るものの制限が厳しく、リベラル派が緩和を求めていた。だが、ローマ法王庁(バチカ
ン)はヒト胚(はい)の実験研究などにつながる緩和案が、キリスト教倫理に反すると
して有権者に異例の投票ボイコットを呼び掛け、政界も賛否が分かれるなど物議をかも
している。

昨年2月に成立した「生殖補助法」は人工授精と体外受精不妊の夫婦のみに認め、第
三者による精子卵子の提供、代理母、ヒト胚の凍結保存と実験研究などを禁じた。こ
のためリベラル派や革新系政党は「妊娠の可能性や医療研究を阻む法」だと反発、署名
を集め規制各項目の撤廃を問う国民投票の実施にこぎつけた。

 だが、法王庁は性道徳や生命倫理、遺伝子操作に厳格な立場から、この動きに反発、
投票率が5割を超えなければ無効となるためカトリック教徒に公に棄権を呼び掛けてい
る。法王ベネディクト16世も先月30日のイタリア司教会議で、緩和案を「キリスト
教精神に反する文化の一形態だ」と批判。側近のルイニ枢機卿は制限のないヒト胚の実
験研究が「恐怖と不安をもたらす」と警告した。

「異例の投票ボイコットの呼び掛け」だと。正平協の自然薯式憲法9条活動並みに胡散臭い。しかもパパ・ラッツィが精力的に呼びかけたりしていたようで。

以下におフランスリベラシオンの翻訳を乗せてくださっているので参照してください。

http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/24935722.html

さてここでは以下の問題を提起したい。
1・生命倫理の問題における教会の考え方の是非
2・政治に積極的、直接的に介入する教会の態度の是非

わたくしは、まず政治に直接的な言及を教会が為すことは実は反対である。ボイコットの呼びかけなど、具体的な方法論を提示するやり方はよくない。生命倫理に関する考えを提示したとしても政治問題への態度に関しては各個人に委ねるべきことだろうと考える。だから大阪の司教が左巻きに巻いた思想を垂れ流すのも気に食わないが、イタリアの司教が「ボイコットしようぜ」などと呼びかけることも気に食わない。こういう政治を動かす共同体として教会があるというのは危険だ。ただ「これが倫理に関わることだから。」という言い訳もあるだろうが、やはりヒントや示唆を与えるにとどめるべきだと思う。それを元に各信徒が各々の良心に従って決定するべきことだろう。それは「平和」に対する態度も同様。とにかくアメリカのネオコンや日本における公明党などが抱える問題をカトリック教会が背負い込むのはよろしくない。

ところでちょっと前に第2バチカン公会議を受け、新しいカトリック大辞典が昭文社から発行された。まだ最後の巻が出ていないが、これがぜんぜん使えない。何故なら倫理神学にページを割きすぎて、カトリックの文化史的資料としてはぜんぜん役に立たないのだ。芸術史などを調べたくとも項目そのものがなかったりする。以前の「カトリック大辞典」(冨山房刊)は典礼に関わる多くの文化的側面にかなりの項目があり、大変に利用価値があった。こうした編纂の変化を見ても現代のカトリックが異常なほど倫理に興味があることはうかがい知れるが、果たしてそれは健全な信仰なのか?という一抹の疑問を感じる。
倫理に対し善悪を決定付けるというのは、律法主義的な方向に行きかねない危険がある。どのような事象にも少数の例外が生じる。全ての人の救いを標榜する宗教が、倫理を規定することで救いではなく裁きを与えかねないような危険性は極力避けたほうがいいとは思う。しかし、だからといってガイドラインがなさ過ぎるのも問題だ。だからこと細かく、科学的に、社会学的に云々する方法ではない、あくまで神学的範囲における結論で「ダメよ」という保守性なら仕方がないが、わけの分からん科学的知識を振り回したり、半端な社会学政治学で、わめかれてもなぁ・・・と思うこともよくある。

さて、ではここで問題となった生殖における生命倫理についてだが、

「生殖補助法」は人工授精と体外受精不妊の夫婦のみに認め、第三者
よる精子卵子の提供、代理母、ヒト胚の凍結保存と実験研究などを禁じた。

カトリック教会は不妊治療までをも否定しているわけではなさそうだ。つまり親子の関係に第三者が入る等の不自然な状況はどうよ?ということだろう。実際回りには不妊で苦しむ人も多く、殿方の種無しという事例も数件知っている。こうなると第三者による・・という方法論に期待したくなるのも無理はないだろうが、何故か周りの人はその手段を云々することもせずあきらめた。
科学もまたどこかでどんどん増長している気もするので、ストッパーは必要だとは思う。特に臓器移植にまつわる第三世界での臓器売買。また受精卵や精子提供者と子供の関係のトラブル。代理母のトラブルなど、新たな問題が多いなかで、生命をたやすく加工できるという発想がもたらす弊害が生じている新時代に、どういう倫理を考えたらいいのか?という問題が生じてきてはいる。また中絶の問題。例えば誰かが望まぬ子を、誰かが養子縁組して育てるといった方法にも問題はある。精子卵子の提供などといったことが、優性思想にもつながっていたりするのでどこかで限界を作っておかないと恐ろしい時代が来るかもしれないなどと思うのです。
私自身はこうした拡大する科学のあり様に一抹の不安を感じるからイタリア人であったら緩和政策に対する反対票を投じたかもしれない。教会なんぞに言われなくとも、不安は以前から感じてはいる。ただ、この政策によって救いを得る夫婦も居るだろうから難しい。

以前、癌に罹った画商さんがいた。私の作品を奇特にも評価してくださった激しく貴重な方だったが、胃の癌になられ、胃を切除した。彼は「どんな手を使ってでも生き延びてやりたい。死の準備をせよなどというぼけたことをいうヤツもいるが、俺は生き延びたい。倫理などくそくらえだ」と言っていた。その半年後になくなられた。問題を抱える人にとっての救いとはなにかを考えさせられた。

カトリック教会はこうした悩みの渦中にいる人への救いや解決策をもっと考えたほうがいいんではないかとは思いますが・・・いやはや、ほんとに倫理の問題は難しいですね。

参考までに、少し違う観点からこの問題を考えている極東ブログさんも紹介しておきますね。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/06/post_8765.html 

しかし・・・何故ボイコットなんだろう?反対票でなく。
反対者が少ないのと「んな問題、興味ないよ」な人が多いからか?