ニーチェ先生

ニーチェ先生の「アンチ・クリスト」を取り上げたもんで、なんとなくあの小気味よいアジ演説が再び読みたくなったのに島に置いてきてしまったので読めない。すこぶる残念である。せっかくなので「アンチ・クリスト」について書こうと思ったのにテキストがないんでは仕方がない。のでニーチェ先生のことでも書こう。
ニーチェという人はとにかく一生懸命な人だ。子供の頃は真面目なクリスチャンだったもので一生懸命聖句を覚えたらしい。聖句がすぐに口の端に上るという嫌な子供だ。しかし牧師の子供という立場は相当に辛いものがあっただろう。だから絵に描いたように大人になってからキリスト教に反抗する。こういうのも結局は真面目の延長で面白い。ディオニシウスに心酔しコスプレ写真まで撮っている。かなり変な人だ。ヘーゲルと喧嘩してるし。ワーグナーにはがっかりするし。ドイツ人の大衆にむかついているし。なんだかいつもあれやこれやにむかついている。当時のドイツがどういう状況だったかはよく分からないが、どーもプチブルは嫌いだったようだ。この人がイタリアで生まれたならばもっと気楽に生きただろうが、あの名作の数々は生まれなかったとは思う。わたくしはそういうニーチェ先生が好きですね。なによりもずっと一貫しているのがいい。「知に誠実な人」とは彼のことを言う。

彼は彼の世界において彼自身の思想を背負い、激しい孤独のうちに最終的に死を選び取るわけで、その孤独への突っ走り方は尋常じゃない。彼が例えば「アンチ・クリスト」において「教会」というものを拒絶する、もしくは「超人」となるべく生きるということ、これらは社会共同体の否定の思想であり、それを実践するというのは結局、隠者のごとき孤独と立ち向かわねばならない。しかもその隠者ですら精神のうちにおいてはなんらかのものと結びついているわけだが、彼はそれすらも断ち切ってしまう。そういう生き様というのは、やはり常人には勤まらないことだと思う。

昨今、こういう「共同体」否定の思想はわりとあちこちで見ることが出来る。伝統の拒絶というのはそのいい例だが「伝統を拒絶する」という行為は「それをその人自身に伝えてきたシステムそのものをまるっきり無視する」という矛盾をはらんだご都合主義としか思えない。ニーチェが伝えんとした思想とはまったく違う、なんとも情けない思考があちこちで散見できる。「イエスは好きだけどキリスト教は嫌い。」「パウロって嫌い」などという人もいるが、そもそもそのイエス像を伝えた福音書の編纂はその教会が行っているわけである。本当のイエスはもしかしたら鼻持ちならないやな奴だったかもしれない。ということは思いつかないのだろうか?もしくはパウロがいなかったらイエスの存在は忘れ去られたかもしれない。とかね・・・こういうのは不謹慎な発想かもしれないが、実は「聖霊」という神に着目するというのはそういう「伝承する」という行為に於いて重要だったりするわけで、伝承されるというなかで真理が揺籃され、熟成されていく面白さは神学史などを俯瞰すると感じます。

また、例えば「マザーテレサは好きだけど、教会は嫌い」などという人もよくいる。その心は「教会が教会の名で行ってきた犯罪に対する嫌悪から・・」ということだったりするようで、まぁ確かにカトリック教会なんぞは真っ黒な過去でとても威張れたものではない。だから気持ち分からないでもないが、そういう善の側面だけを取り入れ、負の側面は取り入れないというのは、人間性を真正面から見つめていないんじゃないかぁ?などと思ったりもする。マザー・テレサはそのカトリック教会だからこそ登場した人であり、同時にカトリック教会の真っ黒けな過去もカトリック教会だからこそ起きた出来事だ。人間は矛盾するしょうもない生き物であり、善を成したいと願いながら罪を犯してしまうシロモノである。しかし善のみを採択し、悪を彼岸に置く行為は、ある種の潔癖症といえるのだが、それは実は危険な思想でもあると思う。罪の自覚のない「正しい」人間ほど過ちを犯すと思うのだ。昨今、こういう発想が多いように思える。(それ以前に「教会はまったく正しく品行方正である」などと勘違いしている人が多いのも困るのだけど)
共同体の犯す過ちに寛容ではないというか、はなからそれ自体を悪と決めてかかっている論調はしらけることも多い。個人を礼賛し、共同体を裁く。よくありがちな光景だ。それは日本という国家共同体を自らのうちにあるものとして受け入れたくないとするがごとき発想、例えば自虐史観などに拘泥する人々の一部の論調にも似たものを感じる。彼らの話には「日本」という国を自らのものと考えていないような印象を感じることがある。確かに「国家」はある種の共同幻想ではあるが、その幻想のうちに生きているという自覚がないというのは客観性に欠いていると思うよ・・・などと批判したくなるような論調も多い。個として自立したような気になっていながら実は体制の中で安穏としているような無自覚と申しますか。もっとも「国家」という概念そのものを否定し「地球市民」的発想な人も多いわけで「日本」は他人事になるんだろうが、現実はそうではない。わたくしは選民思想が根底にあるような民族主義思想は嫌いだが、しかし自己のアイディンティティが自ら生まれた国家の伝統にあることは自覚しているし、その伝統のよきものはやはり継承したいなどとは思う。

本当に共同体やその共同体の伝統を否定し、自身のそれのみで立ちたいならニーチェのごとき孤独の生き様をせよ。などと思う。もっともニーチェですら例えば「アンチ・クリスト」に見る思考などは「キリスト教」の教会共同体という存在があって初めて存在しうるものだったりするので、本当に自立しているかは疑わしいわけだが。

・・・かなり話がアホな方向にそれてしまった。すみません。
にしても「伝統」というものにある「伝える」「維持する」という行為は実は破壊することよりも難しい。変化を求めるのが近代以降のスタンダードな発想だ。だから「普遍」などという黴の生えたものに身を投じて生きようとする人々のほうが最近アバンギャルドなんじゃないかと思ったりしますね。
ベネディクト16世のごときカビ生え人間はだから面白いなどと思うのです。革命する、刷新する、新しいというものが「善」なものとして受け止められているような現代。それは資本主義も共産主義も、近代から現代に至る価値の中では共通にそうであるかのようであり、「新しいもの」への欲望が肥大していく中で、それに抗おうとする思想があるというのがなにより面白いわけです。
ニーチェも抗う人だった。その何事かに「抗うこと」に全身全霊を尽くす人はやはりすごいなと思うのです。ニーチェは伝統を批判することで世俗にあがらい、パパラッツィは伝統を守ろうとすることで世俗にあがらう。ドイツ人というのは・・自ら信じるものになんだかしつこく誠実で、面白い人が多いかも。