アンチ・クリストの都市

というわけで実家に残してきた古い文庫などを読んでいる。
こんなのとか↓

神秘学マニア (荒俣宏コレクション) (集英社文庫)

神秘学マニア (荒俣宏コレクション) (集英社文庫)

こんなのとか↓

日本仰天起源 (集英社文庫)

日本仰天起源 (集英社文庫)

「神秘学マニア」は今読み始めたばかりで、前に買って積読のまま本棚の四次元に入り込んでいた文庫本だった。文庫本は四次元にまぎれやすいので困る。
ここで取り上げられているオカルト都市トリノに惹かれた。トリノフィアットの本拠地であり現代美術でも有名な都市である。イタリアの有名な現代美術作家マリオ・メルツはこの都市でアルテ・ポーベラの活動をしていたと記憶するが、昨年亡くなられたらしい。変なゴミのようなコラージュやインスタレーションをする作家だった。第2次世界大戦下で瓦礫化した都市を目の当たりにした原風景が彼の作品の源泉だったようだ。「アルテ・ポーベラ」とは「貧しい芸術」という意味である。ベネチア・ビエンナーレでも巨大なゴミインスタレーションを精力的に作っていて「あ、この人まだ生きていたんだ・・」などと失礼な感想を抱いた。かなりの歳になっても精力的な作品を作り続けた強さには驚くが、フランスにはさらに化け物的な作家ルイス・ブルジョアがいるしね。彼女はメルツよりもっと年上だったと思うが、フランスで見た個展のパワーはすごいものだった。其の時で既に80歳を越えていたと記憶する。
その現代美術盛んな都市、トリノは魔術の都市としても有名らしい。フリーメーソンの牙城であり、バチカンは近代に於いて、このフリーメーソンとマジに戦いをしていたらしい。ト本の世界ではなく、真剣に戦っていたようだ。実際、バチカンから「メーソンは破門」などという教書も出ていたような記憶がある。メーソン側もカトリック教会の解体は重要なミッションの一つであり、このトリノには教皇の冠を踏みつける信仰の女神像があるという。これは是非見てみたいものだ。
荒俣氏の取材によるとこのトリノにおいては階級ごとに関心事が違うという。上流階級は高度な魔術、つまりルネサンス期から続く哲学や神秘学的アプローチの学級的「魔術」、中産階級カトリック信仰、下層階級は占いや呪術などといった俗なる魔術、ことに第2次世界大戦後に生じた新興魔術などへの興味が盛んだという。この棲み分けが面白い。知識階級はカトリック神学など興味がない、高度な学究としての「魔術」に興味がある。下層階級はまぁ、日本でも占い雑誌などの読者が若い女性だったりなど、高度な学究よりは即物的な興味としての魔術であるという。
カトリック信者としてこういう「魔術」などに興味を持つのも不謹慎かもしれないが、実はすごく面白いとは思う。カトリックの伝統に於いても、ことに大衆信仰においてこれらの魔術的要素が姿を変えて入れ替わり立ち代り入り込んでいたりする。また、古い伝統的な「黒魔術」と呼ばれる分野はカトリックのパロディであり、鏡のようにカトリックの教義や文化を映す。19世紀の幻想文学ユイスマンスはこの黒ミサの光景を「彼方」において書き出しているが、馬鹿馬鹿しいほど真剣に彼らがその儀式に興じる様は結局のところ未だカトリシズムから逃れることの出来ない彼らの愚かさを映し出しているといえる。そもそもヨーロッパ人のキリスト教に対する呪詛は我々極東の人間には想像もつかない程であり、ある種のルサンチマンを感じる。
ニーチェの「アンチ・クリスト」はまさにそのキリスト教に対するルサンチマンの結実と言えるかもしれない。
で、その「アンチ・クリスト」最近こんな本が出たらしい。↓

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

すごく頭が悪そうなタイトルになっちゃっているのが悲しいうえにアメリカのキリスト教原理主義に対する呪詛に満ち溢れた訳になっていそうで、訳者自身が「アメリカ・ルサンチマン」じゃないの?とか思いたくもなりますが、原書の「アンチクリスト」があまり本屋さんに並んでいないので読みたい人にはいい機会かもしれません。ただ、やはりこのような恣意的な「アメリカのくそ垂れめ」的なメッセージが入り込んでいるものよりはニュートラルな訳で読んで欲しいと思いますね。(アメリカにむかつく気持ちはよく分かるが・・)
そもそも、この「アンチキリスト」はキリスト教徒が読んでこそ意味のある書なので、異教徒が読んでもせいぜい前世紀に威張り散らした白人の宗教に対するニーチェ先生の小気味いい恫喝を読んでカタルシスを得るという効果ぐらいしか期待出来ないとは思います。つまり読んでいる人々が「市場の蝿」状態だとそういうレベルで終わるわけですが、ヨーロッパやアメリカ人が抱いてきたキリスト教とそれに対する近代の揺らぎがこのニーチェの書には見られるわけです。トリノの魔術にしてもそうですが、これらは近代が体験した不安の裏返しであるとは思います。其の揺らぎが結晶化した書として読むには有効であると思います。
ニーチェの呪詛は現代のキリスト教神学の世界にも反映されているようには思えます。「初代教会に帰れ」といった発想はプロテスタントのみならずカトリックにも見られます。史的イエス研究などはそのいい例でしょう。ニーチェ自身はルーテル教会ルター派プロテスタント)の牧師の息子で、しかもガキの頃は「小さな牧師さん」などとあだ名されるほどの信仰篤い・・つまり気持ち悪い、鼻持ちならないクソ餓鬼だったようで、其の反動がこの書を生んだといっても過言ではないと思います。バタイユの兄がやはり神父(こちらはカトリック)だった反動で・・というのにも通じますが、彼らヨーロッパ人のキリスト教に対する呪縛はなにかすごいものを感じますね。
現代にもそのような呪縛を感じます。マスコミが異常にリベラルな立場でバチカンを攻撃する様態も、日本人のように「宗教家のたわごとなどほっとけ」などとは思う事の出来ない不器用な精神性から来るようにも思えますが、まぁ、そういうのはいわゆる知識人達の話で庶民は好き勝手にやってはいるようです。荒俣さんの見たトリノの光景などを読むとそういう印象を受けますね。
ニーチェがもっとも呪詛するのは実はそういう半端な知識人だったりするわけです。是非ともトリノにいるような「中産階級カトリック信者」に読んでもらいたい書ではあると思いますね。

しかし・・トリノは面白そうだなぁ。しかしこういう面白さは住んでみないと分からないんだろうな。ところで荒俣さんはトリノに於いて魔術対バチカンの壮絶な戦いを期待していたようですが、昨今のカトリック神秘主義ニューエイジに対しても一定の尊重をするというのを聞いて「弱腰」とがっかりしています。しかし昨年バチカン教皇庁立の神学校にエクソシスト養成講座(悪魔学などをマジに神学的に研究するなどかなり高度であり、一部の聖職者にしか開かれていない)を開いたらしいので期待してもいいかもしれませんね。
荒俣さん好みのサイキックな戦いがトリノで始まるかも。