痛みの芸術・2

いやはや、あれから柳美里さんがネット上で色々やらかした喧嘩の数々を読んでいましたが、すごい方ですね。ただ、一貫しているのが、攻撃的であり、時に幼稚(「もう来ない!ぷんぷん」的な・・)でありながらも、とにかく全力で喧嘩している。高校生だろうが名無しさんだろうが、誰に対しても対等に喧嘩しているところは偉いなぁと。
個人的には、なにか腹が立つことがあったとして、面と向かって言わず、裏でまったく関係のない他人様に散々人の悪口をいう・・・という所謂「陰口をたたく奴」というのがもっとも嫌いなので、こういう面と向かっていっちゃう人には実は共感を持ってしまうわけです。わたくしも影でぐにょぐにょいうのは本当はすかっとしない・・・なもんで面と向かって文句を言ってしまう方なのでよく人と喧嘩になります。師匠相手でも喧嘩してしまう。これはこれで困ったもので、済んだあとはいわばあとの祭りで、当人ではなく、まったく関係のない他人様に懺悔をするということもよく起きてしまうわけです。あと、当人と喧嘩したあと、まだまだ溜飲が下がらず、その被害を第三者が被るというパターン(要するに怒りのテンションが上がったまま、第三者に喧嘩の推移を報告しながらまだ怒りまくっているなど)もあります。これはこれで我ながら困った性分だとは思います。
とにかく見しらぬ第三者に対しあれだけ真剣に怒りまくることが出来る。特に今回上げた論争では相手の批判に対し自らのスタンスを述べ続けているだけなので、いささか気の毒になります。というのも批判者は自らの価値を柳美里という作家に押し付けているわけです。批判者の高校生のいう事はもっともで、非常に常識的な大人としての価値で柳美里に問いかけている。しかもかなり誠意のある書き方で問うています。しかし柳美里は作家であることを選び取った、非常識に生きる芸術家としてそれを自覚しながら決意し作家という稼業をしているわけで、当然、価値がすれ違うわけです。
常識は共感が得やすい。当然正しいから、相手に探求する。しかし、こういう追いつめ方というのは、どうなのだろうか?と思いました。正しさで人を裁く。それはたやすいことですが、正しくない生き方に賭けている人相手に、常識的に生きろというのは、その人のアイディンティティを否定することになる場面もある。更に人間というのは欠点が長所になる場合もあるし、長所が欠点になる場合もある。それが表裏一体である場合がある為、難しいとは思いますね。
これは最近出入りしている方の多くのブログで、語られているテーマ「正義」に通じる話になると思います。ここで高校生は「正義」を語っているのですが、その正義に屈伏すると作家柳美里は存在価値が無くなってしまう。だから彼女はあそこまで非常識をまき散らしながらもあがらうのでしょう。しかし作家として生きる者というすざまじさを見せてくれてもいる。その点で面白い作家だと思いますね。