記号化される40代 

id:eireneさんのところで内田氏という記号論をやってる学者さんのブログが紹介されていた。仏教について考察していたりなかなか面白い活動をしている人のようだ。記号論学会の近況も紹介されていて、昔、山口昌男師に誘われて、私も一度参加したことがあるが今も健在に続いていたんですね。しかしエントリを読むと、山口先生は脳梗塞で倒れて以来、この学会には参加していないのか。少し心配です。
で、以下のような記述があった。

http://blog.tatsuru.com/archives/001002.php

40代のみなさんは、そのような「コミットメント」世代に「うんざり」するというかたちで人格形成を
遂げられた。
そういうものである。
あらゆる世代は先行世代の「前者の轍を踏まない」というかたちで走路を選択する。
そのせいで、いまの40代のみなさんは、「ややこしい人間関係に過剰にコミットしない」ということを
世代的党是とされて今日の日をお迎えになったのである。
それは言い換えると「オレのことはほうっておいてほしい」「好きにやらせてくれ」「所属組織に対する
なまじな忠誠心のようなものを期待しないでくれ」「私生活に干渉しないでくれ」「他人がどうなろうと、
オレの知ったことではない」的なクールでニヒルな方々がこの世代には相対的に多いということを意味し
ている。
別にそれはそれでよろしいのだが、彼らはやはり日本が国民国家として安定期にはいった時代にお育ちに
なったので、「かなり効果的法治されている」ことや「通貨が安定していること」や「言論の自由が保障
されていること」などを「自明の与件」とされていて、それを「ありがたい」(文字通りに「存在する可
能性が低い」)と思う習慣がない。
そのような与件そのものを維持するためには「水面下の、無償のサービス」(村上春樹さんのいうところ
の「雪かき仕事」)がなくてはすまされない、ということについてあまりご配慮いただけない。
だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることを
つねとされていて、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自
省されることが少ないということである。

なかなか鼻息が荒い。
なんとなく40代を激しく小ばかにした論。そもそもがこういう簡単なカテゴリ論そのものは手法として馬鹿ばかしいし、問題の論点づらしになってしまうことが往々にしてあり、感心しないうえに、この文においては丁寧語を用いて40代の人々への反感に対し火に油を注ぐという手法で、この人はなにかルサンチマンでも持っているのか?と勘ぐりたくもなりましたが、まあそれは置いておいて、彼が指摘する40代のこの傾向はいかに起きたか?を考えてみるのも悪くない。

これはちょうどいま学齢期の子どもの親御さんたちの世代なのであるが、この方々が「学校に怒鳴り込
んでくる」比率は先行世代の比ではないということを各級の学校の先生からお聞きしている。
子どもが階段ですべってころんだというときに、「足下の危ないところでは慎重に行動するように」と
子どもに説き聞かせるよりさきに、学校に「どうしてすべる可能性のある階段を放置したのか」と管理
責任を問うようなことをされるのである。

こういうクレーマーな人々を見るたびに「自己責任をまず考えろ。」「他者の責任を追及する前に己を振り返れ。」「社会に甘えないで自立しろ!馬鹿めが」などといつも思う私はまさに40代なわけです。既にして彼のカテゴリから外されてしまうわけです、しかし確かにこの手のアホアホな親が多いのは事実だろう。以前、我が島を訪れたある元教師はこの手の馬鹿親に悩まされ、自分の職務についてまっとうできるのか不安になり、結局、辞職してしまった。その傷心の旅の中で彼女と出会ったのだが、彼女の悩みを聞いている時に、この手の馬鹿親が何故増えたのか、やはり疑問に思ったですね。

さて、ではこの発想どこから来たのかというと、私が考えるにまさに前の世代がぶち壊さんとした物事の結果とも言えるわけです。

いみじくも内田氏は自らの世代のことを評し

それは「親族や地域社会や国民国家」のようなべたべたしたものを「超克」することが優先的な世代的課題として「過剰に意識されていた」からなのである。

と述べている。が、40代の人々は親よりも友人の関係を大切にする。国家や地域社会よりも自分に近いものを重要視する。まさに彼らが克服したものの結実の結果が「40代」と言える。しかし、自らより弱いものへ思いやり、国家に対する責任、これらは彼らが否定した縱の構造が育む思考でもあったわけで、それをぶち壊してしまうとこのような怪物が誕生してしまうといえる。物事には表裏一体化する現象が往々にしてあるものだ。内田氏の世代の運動は、優れた遺産も、負の遺産も、産み出したと思う。その負の遺産を直視せずに世代間の階級闘争と片づけることで、自らの世代の責任を回避するその視点こそがまさに「無責任」の構造を露呈しているといえる。



しかし、そもそもが世代間とはなにか?という論点自体がすでに誤った印象を受ける。
ある種の傾向があるにせよ、各現象において分析するものであって、世代という単純化されたカテゴリにおさめ、自らの世代との間に溝を引くことによって自らは関係ないとするような手法はもっとも戴けない。まさに彼が批判する思考そのものを自ら行っている。しかしこの嘆息すべき現象は社会共同体全てが責任を負い考えねばいけないことだと思う。それが社会共同体を構築する「仲間」の責任だ。
山口昌男氏の偉大なところは、ものごとを単純化しないところである。単純にカテゴリに当てはめて満足するのではなく、寧ろそのカテゴリを超えた新たな発見をするその手法において偉大だと考える。彼と対話していて気付くことは、彼がまったく世代を超えて、相手を個として見るところである。自分がよいと思えば相手の属性など構わず応答する。若い世代も、年配の世代も、男も女も関係なく、その対象となるものを素で捉えるのだ。だから上の世代には煙たがられたかもしれない。私もかつて山口先生と講演旅行の旅先で喧嘩したことがある。本気で喧嘩するのだ。相手を下とか上と見做さない。相手が若年者だとて、擁護も、保護も、譲りもしない。しかもその後のフォローも忘れない。彼はやはり偉大な方なのだと。あらためて思った。
内田氏に於いては、その山口昌男氏の道をたどって欲しいと願う。