聖書の読みと解放の神学

先日、歴史認識のところで園丁日記さんの記事を少し紹介した。

謎の●流思考回路と行動様式。2
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/3526486.html 

枇杷さんが取り上げた素材は或る牧師の卒論である。

(以下一部引用)
1984年2月 、日韓宣教協約締結後在日に対する差別への取り組みが宣教の課題であることを認識し 日本基督教団京都市内地区婦人会と在日大韓基督教会(京都教会、京都南部教会)と が交流を持ち、共に宣教の業に励もうとする「水仙花会」が始まった。様々な学習会を 開催し、合同礼拝も会を重ねてきた。外登法改正に向けて、多くの署名も頂き共に支援活動もしてきた。共生社会のモデルを日韓教会の中で具現化していくという良い交流ができた。しかし日本人女性から「私は韓国の人を差別したことないわ」という言葉を聞くと私は、「サラとハガル」の物語を思い出す(創16:1〜10、21:9〜21)。

好意的に言っている言葉のようだが、無意識の偏見が見える。サラもハガルもアブラハム(男性)の所有物にすぎないのにも拘わらず、サラ(日本人女性)が、ハガル(在日韓国、朝鮮人女性)に辛くあたる。男性中心社会で抑圧されている日本人女性が在日女性を一段と低く見ている。二重三重の抑圧の構図が浮かんでくる

うむぅ。強引な解釈ですねぇ。
枇杷さんも民族差別構造を聖書の物語に置き変えて読むという手法について、以下で批判されています。

聖書解釈・古事記解釈の斜め上>謎の●流思考…追補編
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/3544058.html
一般に聖書解釈というのは、他の古典にも同じことが言えますが、
その背景となっている時代における社会の仕組みや倫理観・風習などを
頭において、それからのものになります。
ですので、現代の感覚そのもので自分の感性で解釈をしようとすると、
同じ文面の解釈でも斜め上を行ってしまいがちです。

さて、これについて実は枇杷さんのブログに応答しようと思ったのですが長くなるので、こちらで応答します。

聖書解釈には様々な手法があります。字義的解釈、寓喩的解釈、霊的解釈、歴史的解釈、道徳的解釈などなどです。たいていは場面に応じてこの読み方を複合的に行うものです。きっちり別れているわけでなく無意識に行っている場合が多いと思います。
字義的に読み取る方法では、ファンダメンタリストの「創造論」などが有名でしょう。賛否は当然あるとは思いますが、なかなかユニークなアプローチだとは思います。寓喩的な解釈には聖ベルナールの「雅歌講話」などが相当しますね。「雅歌」のような書はそのまま字義通り読むと単なるラブレターですから、聖職者としてはそれが聖なる書には入り込んだ意味はなにか悩ましかったと思います。しかし(ゴーインに)優れた解釈を産み出した辺りやはり聖人に相応しく天才ですね。霊的解釈は常々キリスト教徒が無意識に行っているかと思いますが、啓示としてその個所を受け止め理解するなどです。歴史的解釈は誰がいつ何処でそれを語ったのか?などを念頭において解釈する、そして道徳的解釈は聖書を生きる規範として捉えることですね。
また、学問的な解釈における手法は合理的手法、歴史的手法、社会学的手法、文学的手法などにわけられるということです。多くの聖書学などはこうした手法を用いて聖書を研究しているようです。

上記の牧師先生の解釈は霊的もしくは自ら置かれた立場を寓瑜としての聖書の語句に当てはめて読み取っている手法であり、導き出された読み方は非常に主観的な解釈です。枇杷さんの手法は歴史的解釈、聖書学的なアプローチで読み取ろうとしています。信仰者としてはどちらでも読み方としてはアリなわけです。ですからけっしてこの牧師先生のアプローチ自体は間違っているとは言えないわけですが、主観的な読み方は普遍的な解釈として通用しない場合が多く、こういう公的な場に持ち込む場合、自らを正当化する(つまり神の権威を自らの論に用いる)場合も多く公平な解釈とはいえません。いわば戦争に神の名を持ち出すのと同じ事が言えるのです。
自らの正当性の為に聖句を持ち出すのは、神を利用し、神の意志をねじ曲げる偶像崇拝的思考と批判されても仕方ない場面です。ですからなにか主張をする場合に聖書の言葉を安易に持ち出す方法などはほんとうは避けたほうがいいと思いますね。
ただ、あきらかに差別に苦しむ同朋がいたとして、その人を慰める場面などでこの言葉が語られていたなら、別にそれはそれ。とは思いますが、民族主義的発想そのものがキリスト教とは本来的に相容れない部分があるので、いいのかなぁ?とは少し思います。

さて「解放の神学」を用いる場合、往々にしてこのような思考が持ち出されます。この牧師先生も「外国人差別」の主張をしている場面で他の方に

「在日外国人の差別撤廃に向けて」の集会で司会をしている時、講師 であった大沼保昭東大教授が「あなた方は差別云云・・・とばかり言っているが、公害問題とか被爆者その他の問題に関心を持たない事は差別する側に立っているのですよ」 といわれ、頭をガーンと殴られるほどのショックを受けた(在日は差別されているけれ ども同時に差別している存在だということに気づかされた)。関心を持ち愛の実践をしなければイエスに従うことは到底できないということ。そして貧しく抑圧され疎外されて苦しんでいる者と連帯することの大切さを教えられた。

・・・などと言われてしまいます(この牧師先生はすぐ反省する辺りがいい人ではありますね。)外国人差別を主張している場に違うネタを持ってくるのも論点ずらしで、この場面においては少し牧師先生が気の毒になりますが、そもそも発端の発想そのものが、善悪の構造で成り立っているために、2元化された価値や視点では、対立構造から永遠に脱却しえないと思うのです。牧師先生は「他の弱者との連帯も大切だ」と結論付けていますが、本当は根本の2極構造の発想そのものを突かれたとは思います。

エスの新約はそのような単純化された善・悪の構造を「愛」という視点から解決しようとした辺りがすごいわけです。つまり敵や味方、民族、善と悪、置かれた身分といったあらゆるカテゴリからの「解放」なのですね。