不可謬圏とか、ベネディクト16世のこととか

一輝師匠が昨日のアホ漫画に突っ込み入れてきた。

http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20050426#p1 
要約:教皇の不可謬はエクスカテドラから出されるものに限られるだろうがボォケ!!!

師匠。そのとーりです。べねぢくと16教皇ラッツィがたとえ「僕ちゃんはヤオイが許せん!嫌いだ!キモイ!」とか喚いたとしてもそれは不可謬にはなりませにゅ。安心して腐女子ヤオイを書けるってものです。そもそもが師匠がいうように「信仰と倫理」に関することだけなんですね。

しかし一輝師匠は信者さんでも何でもない人なのに、不可謬という有り様を肯定したり、ドミヌス・イエススを評価したりする変な人です。カール・ラーナーをキリスト教グローバリズムとして嫌います。どうもカトリックの中の人よりも、外の人のほうがエキュメニズムについて胡散臭く思うようです。そういう方は師匠だけに限りませんが、やはり包括主義的思想はアメリカのグローバリズムに通じるように見えると思う。

というわけで、karposさんがベネディクト16世の説教を3回にわけて全文アップして下さいました。

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050424#p1
パリウムの説明と、羊飼い(牧者)ということについて。
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050425#p1
漁師の指輪と、漁師としての人を漁る使命について。また牧者と漁師という仕事について。
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050426#p1教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉を引用し全キリスト者への言葉。

非常に根本的なキリスト教の教えです。
ラッツィンガーの説教を読んだルーテル教会のバール・カルト氏は以下のように評価しています。

http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/20050425
コンクラーベにおけるラッツィンガーの説教は、おそらくプロテスタントでも違和感なく受け入れ
られるもので、特にローマ教会臭さは感じられない。

まったく王道の「キリスト教」の考えをラッツィンガーはずっと語りかけています。「キリスト教入門」で書いた根本的なキリスト教への彼の考えは今も変ることはありません。キリスト教各派との対話を行うなら、まずココに立ち返って共通概念を確認しないとダメということでしょう。その点ではまずはじめに足下に立ち返ってみましょうという彼はなかなかの策士ともいえます。
ローマ在住の友人(ユリアヌス先生ではないよ)はこのようにベネディクト16世の就任ミサ説教を紹介する。

日曜日の教皇の説教をめぐってはいろいろある。けっこうこの人furboかも。
前任者の言葉をいろいろちりばめながら、一見分かり易いように喋っているが、
その実内容がかなり濃い。昨日のAvenireというカトリック系の御用新聞は論説
記事で四つの部分にこの説教を分けて説明している。というか解説を入れている。
基本的にキリスト回帰ということで、これに対抗するような教会内の動きをけん
制しようとした説教の内容ととることができるのではなかろうか。正義と平和、
青年、典礼などなど。今日はLa Repubblica とう左寄りの新聞(大衆紙)で宗教
相対主義の特集を数ページにわたってやっていた。宗教相対主義、シンクレニズム、
ニューエイジなどなど教会を脅かす運動と本気で取り組むのがこの教皇の意向らし
い。先週の木曜日にユダヤ教と対話、昨日は東方教会と対話。諸宗教との対話もお
こなった様子。どうやら外堀を埋めていった、イスラム教との関わりをつくろうと
しているようにも見えなくもない。なにか面白そうなことがおこりそうな予感がす
るのは私だけだろうか。

(彼の個人的な日記からの引用なのでURLを遠慮してしまいました。)
因みにfruboは「抜け目ない」という意味。
彼はイタリアにいる為に「イタリア語を日本語に直すのがおっくうで嫌〜。」とか言っています。大量の論文やらナンやらを抱えて頭の言語構造が今は大変そうなので「もっと詳しく」とか聞きたいけど我慢。
しかし、ラッツィは次々と手を打っているようです。面白いので目は離せません。
特に相対主義とは真っ向から戦うつもりなようです。まぁ「信じる」という営みに相対主義は合わないからなぁ。相対的に、つまり自己の信じるものを批判的に見ながら確信犯的に一つの道を選び取るということは可能です。まさに八木雄二先生が書かれた「個」の思想を地でいこうとしてるという案配。そのような存在がいわゆる「ポストモダン」とやらな時代にどれだけ通用するか見届けたいもので御座います。←意地悪?
キリスト教の根本は神に立ち返ることであり、その点ではイスラエルの地に生まれた諸宗教は根本は同じです。「神を前提とする」という点において。他にはあきらかに差違があります。ですからその構造を把握していないと結局対等な対話は出来ません。

自分自身、何かを信じるといった時に、自分自身のみを探求してもある種の自己が構築した原理的ななにごとかはあるわけです。私自身は言語という存在そのものを信用していない為に、絵画の世界で探求するわけですが、普遍の美について、やはり自分なりの確固とした(言語には置き変えられない)なにごとかがないとアイディンティティそのものが崩壊していきますね。スランプの時はたいていそれを見失っている時です。外の意見に流されたり、流行などにとらわれると見失ってしまうこともよくあります。再構築するのが困難になります。
宗教の営みもそれに近いものがあるなぁと常々感じます。その点において彼にはシンパシーを感じるわけです。融和しない個がどれだけの逆風を受けるのか?それはどれだけ認められるのか?見てみたいと思うのです。

しかしラッツィンガーの思想をずっと追い続けてきたけど、彼の思考傾向はアレですね。「ぼのぼの」の「しまっちゃうおじさん」相対主義とか、シンクレティズモとか、ニューエイジが嫌い。それぞれがそれぞれの根源をきちんと把握し、分際をわきまえること。世俗的なことと教会的なこともまずきちんと足下を見つめ、分際をわきまえて接しろとか、それぞれをしまうべき場所にしまって、きちんとしてから、もう一度とり出さないと嫌〜〜。的な、部屋の中もきちんと片づいていそうな人ですね。ドイツ人だなぁ。

◆追記
ラッツィの部屋は片づいていないらしい・・・・
http://www.excite.co.jp/News/tb/News/odd/00081114431845.html
「彼はよく物を置きっぱなしにして、時計やら鍵やら書類やらをどこかにやってしまうのです」

ところでこのブログは面白い。

toxandriaの日記
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050425/p1 

この単元は、スコトゥスです。フランシスカンな私としては見過ごせません。スコトゥスのいうところの自由意志は神を前提とした自由である。そこんトコ勘違いするなよ。とか色々。近代以降の色々な思想をばさばさと切りながら、現代の日本の政治状況にまで言及しています。爽快感抜群に読みごたえあり。(参考資料が八木先生だった。。。。やっぱり。スコトゥスやる物好きは彼と福ちゃんしかいないもんなぁ・・・)