教皇ベネディクト16世の説教

就任式が行われたそのミサの説教が激しく長かったらしい。その説教をkorpsさんがアップして下さったので、読んで見て下さいです。一部だそうです。横文字を読むのが嫌いな私にはありがたい。
http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050424

最初のしるしは、私の肩にかけられた純粋な羊毛の布でできたこのパリウム(肩衣、三つの釘もつけ
られている)です(指差しながら)。このしるしはとても古いもので、4世紀の終わりからこの街の
司教は着けています。これはキリストのくびきのイメージと考えられています。神のしもべのしもべ
のしるしです。

パリウムというのは肩にかけた十字架のついた長い布で、教皇冠の代わりにコレを受けるらしいです。それをネタにしながら説教が始まったらしい。パリウムは教皇大司教がつけるものなのですが最近はほとんど見ることがないですね。祭日などにつけていたらしいですが「私たちの司教ペトロ岡田武夫」がつけていらっしゃるのを見たことがないのですがやはりお持ちなんでしょうか?珍しいもんを見たなぁという感じ。着用の仕方が伝統的なラテン教会の真ん中にたらすのではなく、正教会の総大主教のように左から垂らしていましたですね。ラッツィはやっぱり正教会オタなんだろうか?
とにかく「根本に(・∀・)カエレ!!」 ということで、パリウムを通じてキリスト教の本質についてのお話が延々続いているようです。一応、パパ・ラッツィはアイドルでもなんでもなくただの一牧者ですからね。

子羊のシンボルはもう一つ別の面があります。古代オリエント世界では、王たち自身が人々の牧者と
して任命されるときに使われたのです。それは、彼らの力の一つのイメージであり、皮肉なイメージ
でもあります。つまり、人々はまるで、牧者がその良い意志に従って意のままに使える子羊のような
ものだったというわけです。しかし、人々の牧者、生きておられる神は、まさに神ご自身が一匹の子
羊となってしまったのです。子羊たちの横に置かれ、軽蔑され、殺されました。ほんとうの牧者が福
音書のなかでどのような者かが語られるとおりです「私は良き牧者・・・私は私の羊たちのためにい
のちをわたす(ヨハネ10、14)」。

激しく基本的な牧者の心構えですが、これは実は難しい。
最近、オルテガとかいう人のすごい過激な本があるというので読んでみたいかなぁ。と思っていたんですが(タレルの「暴力論」の方がもっと読んでみたいんですけど。岩波でまだ絶版なのかにょ?)それはこういう本です。

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

オルテガというとドラクエの主人公の親父ですが、この人はそうではなく思想家らしいです。何故よみたいかというとこういう一説に出あったからなんですね。有名な言葉らしくレビュアーも挙げていますが、こんな感じ。

「大衆」とは「凡庸な精神が自己の凡庸であることを承知の上で、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、
これをあらゆる場所に押しつけようとする」人々

ここでいう「大衆」とは庶民のことじゃない、ニューチェが嫌った市場の蝿的な、無自覚の市民のことなんでしょうが、肥大する権利というのに我々は絶えず取り囲まれて生きています。しかたありません10人いたら10人の形の違う権利があるわけで。誰だって抑圧されて生きていきたくはない。しかし自分の権利を主張する時に他の権利を阻害していることに気付かない構造や、己の権利に同調しない人を侮蔑する場面などにも良く出くわします。そんなのはただのエゴです。だからこの勇ましい名前のオルテガというおっさんは「大衆」ではなくて「貴族たるべし」などといってるみたいです。大衆から施政者の視点となり、全体を見渡せということですね。市民がそれぞれそういう視点を持て。ということです。
己の権利を主張すると同時に、その要求する共同体が抱える他の問題にも目配りしなきゃならんわけです。場合によっては己の権利を棚上げするしかない場合もあります。ましてや統治するものはやはり「しもべ」の精神性をどこか持たなきゃいけないんでしょう。オルテガのいう貴族性とは限りない責任感のことです。(読んでないから、たぶんだけど)

力というすべてのイデオロギーは、このように自分を正当化し、人間性の発達と自由に反対する者の
破壊を弁護します。私たちは神の忍耐のために苦しみます。私たちにはこの忍耐が必要なのです。
子羊となった神が、世界は十字架によって救われたのであって、十字架につける者によって救われた
のではないと、私たちに言います。世界は、神の忍耐によってあがなわれ、人間の苛立ちによって壊
されてしまいます。

中国がいきなり要求をつきつけてきたり、あるいは多くの人がカトリック教会に要求をしてくるのをみています。それぞれの思いは切実だし。そりゃ当然だよなぁ。と思わなくもないが、あまりにもそういうのばかり聞いているとだんだん「おまえら甘え過ぎ。」という気にもなってくる。政治に色気を示す思考で「世界に10億以上いるカトリック教会の力で物事を変えたい。」という発言をしていた人もいますが、そいつのいうことに同調出来ない場合も多々あるので、「10億って私も入れるわけ?巻き込むなよこのボケ。一人でやれ」とか思う時もあります。
どうもカトリックはでかくなり過ぎ、その力の誘惑に弱い人が多いようです。宗教がそのようなムーブメントで動くことほど怖いことはないと思うのです。しかしそれは前任の教皇が遺した負の遺産でもあるとは思います。ラッツィが宗教をイデオロギーの彼岸に置いておきたいと願うのは当然だと思うのです。危険な存在になりつつある。特に今のアメリカのような現状を見るなら余計でしょうねぇ。カトリック教会は核兵器のようなものだということを自覚しないと怖い。どうも第2バチカンは信徒の使徒職を主張したはずなのに、ますます大衆は教会の力をあてにしている。暗黒と言われた中世の人のほうがもっと自立していたと思うよ。迷信深いけど、坊主のいうことを馬鹿にもしていたからね。やりたいことがあるなら世俗に住まう我々で解決するのがいいんでないの?とか思うわけよ。マジで。
(この点で不可謬権について云々した某神学者のいうことに耳を傾けたほうがいいかも)
何も考えず、何も要求するわけでもなく、パーパラッツィで遊んでいる若いドイツの人のほうがまだ健全かも。教会から自立しないとね。