パパラッツィの昔の暴言とか

天漢日乗さんトコでみつけたこれ。

ローマ法王は前法王の側近、ラツィンガー枢機卿ベネディクト16世に (その4) 
ベネディクト16世の仏教批判「仏教はエロティックな霊性」→どうも錯簡があるらしいぞ
http://d.hatena.ne.jp/iori3/20050420#p6 

ココで考察されている元ネタはコレ

世界キリスト教情報 1996/4/7 333号
http://www.gospeljapan.com/skj/970407.htm
◎仏教は『エロチックな霊性』
=ラッツィンガー枢機卿が指摘=

 【ワシントン=RNS・CJC】ローマ・カトリック教会の教義の最高の擁護者である教皇庁教理省
長官ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、キリスト教徒の間に仏教修行への要求の高まりを退け、教会が
挑戦を受けた時は全力を挙げて戦わなくてはならないと語った。

 これは同枢機卿が仏週刊誌『レクスプレス』とのインタビューで指摘したもの。同誌の三月二十一日号
に掲載された。「もし仏教に魅惑があるなら、それは仏教が具体的な宗教的義務なしで無限と至福とに到
達可能のように見えるからだ。その意味で仏教はエロチックな霊性である」と言う。

仏教はエロい????なんじゃそりゃ?
流石にいくら強面ラッツィの発言でも馬鹿過ぎやしないか?そりゃおかしいというので、天漢日乗のiori3さんが、がしがしと英訳などを引用し、考察しておりました。なかなか面白かったです。

しかしずいぶん古い記事だなぁ。。と思ってキリスト教情報の他の記事を読んだら・・・

=『ボーンアゲイン』のキリスト者=
【ワシントン=RNS・CJC】
米福音派世論調査専門家ジョージ・バーナ氏は、福音派から見ればこれまではキリスト教と
見なすことに抵抗のあったカトリック信徒の中で『ボーンアゲイン(生まれ変わり)』のキリ
スト者と考えられる人が増えていることを発見した。

これまで福音派の多くはカトリック信徒はキリスト者ではなく、救いを必要としている、と思
っていた。しかし最近では福音派カトリック信徒の中に、相互の神学的違いを重んじつつも
社会問題に関して活動する共通基盤を見出す動きが出ている。

うーん。すごい。私はキリスト者ではなく、救いを必要としていたのか。
それははじめて知ったよ。というかボーンアゲインってなに?時々、福音派の方が口にするのを聞くが、実は知らないのである。

バーナ氏は『ボーンアゲイン』を定義するにあたって、次のような確信を基盤にしている。
−−−「私の生涯で今日もなお重要なイエス・キリストに個人的に関わっている」
−−−「私は死後に天国へ行くと信じている。それは、私が自らの罪を告白し、そして自分の救
い主としてイエス・キリストを受け入れたからだ」

なるほど。前者はカトリックでも昔から言葉にするまでもなく自明の話だけど、まぁいいかげんが多いからなぁ。後者の「天国へいくと信じている」かどうかについては「神が決めることだ」と思っている人が多いのでハネられているかもしれない。なんせ信仰義認説に立たない為に、生きている間の行いも問われるというのは、カトリックや正教などの考え方です。ですから福音派の立場からすれば「カトリックキリスト者としての基準を満たしていない」とするのは当然でしょう。寧ろ自身の教義を曲げてまで「一緒ですねぇ♪」という方がおかしい。

しかしまぁ、本音を言えばボーンアゲインされているかどうかなんて、他人様にはかられるのは、余計なお世話だな。そりゃ神の領域だ。とかわたくしなどは思うわけですが、この発想は翻ればユリアヌス先生がカール・ラーナーの「無名のキリスト者」に考えた発想とおなじなわけです。仏教徒に対し「キリスト教に適合するから、あんたは救われている」などというのは自分に向けられれば、いかに傲慢かよく判るというものです。

パパ・ラッツィがキリスト教と仏教の差違を認めているのは当然なわけです。だから対話をおこなうにしても自分のスタンスが問われるわけですね。にしても「エロい」ねぇ。キリスト教情報の訳は馬鹿すぎる。きちんと哲学や神学を学んだ人に訳させた方がいいと思われ。

・・・ところで、こういうの(無名のキリスト者とか、ボーンアゲインされてるカトリックとか)を「ポストモダン」っていうのでしょうか?う〜ん。まだよく判っておりません。