「典礼の精神」ヨゼフ・ラッツィンガーを読む 3

いいかげん中国はもういいや。それよりこっちをぼちぼち読まなきゃ。

第一章「聖画像の問題」

画像と秘跡

イコンは単なる歴史的な物語の記述ではなく、もっと積極的な、つまりそれと相対することによる神秘的交流を目的としたものであるということを教皇文書のエントリーで書いた。それらの原形はすでにユダヤの会堂でもみられたらしい。

ユダヤ教ではイエスの時代から三世紀に至まで、聖画像問題についての非常に寛大な解釈が
発展しました。(中略)考古学の研究成果として、今日私たちは、古代の会堂が聖書的場面
の描写で豊かに装飾されているのをみることが出来ます。
それらは絵画による歴史教育か何かのような、過去の出来事の単なる描写とはみなされてお
らず、想起することによって現在化させる告知、「ハガダ」(Haggada)として理解されま
す。典礼的祝祭において、過去における神の「業」は現在化します。

偶像崇拝に対し厳格だと思われていたユダヤ教においても、このように積極的に画像を取り込んだ時代があったことは意外でした。
秘跡は神と人との双方向の交流ですが、聖画像に向かう時もそのような交流があるということは、われわれがなにごとかに祈る装置としての画像と相対する時体験するものではあります。つまり、なにもない空間や日常的な生活圏の中で祈るよりも何か思考のきっかけになるものがあるというのは確かに祈りやすく、またそれについて考えたり思考を巡らせる手助けにもなります。単なる歴史的なものを読み取るという以上の成果を得る感覚があるかもしれません。たとえば強烈な美術作品に出会った時、もしくは優れた音楽に出くわした時、天啓ともいえる衝撃を得ることがあります。それはこちら側の能動行為ではなく、あきらかに作品がもたらした一方的なものであり、そこから今度はこちらがわから想起するという交流を無意識下で行うことがありますね。そういう思考運動が視覚化された聖書であるイコンにはあると思います。こちらが能動的に働きかけている一方方向だけではない。
優れた芸術には対話があります。「モナ・リザ」という作品は単なる喪服をまとった女性の肖像です。しかし私の姪などは「うわ。この絵怖い〜」と言いますね。それは単なる美しい女性でもなく、謎の表情が頭のどこかに引っ掛かり、単純に美を喜ぶ作品でないことは確かです。子供の頃、家の居間に掛っていた複製のモナリザが怖くて怖くてたまりませんでした。夜中トイレに行く時、そこを通らねばならなかったのですが、モナ・リザがいつまででもこちらを妖しい表情で見ているので、目を合わさないようにしていましたね。彼女は日常から掛け離れたような異質なオーラを発しているんですね。だから一体こいつはなんだろう?とずっと不思議でした。こうしたきっかけから絵と自己との深い交流が生まれていくのです。古代の人はそういう働きに着目したのだと思います。

イコンは内的感覚の開示から来なければならず、経験的なもの、見せかけを乗り越え、後代の
イコン神学がいうように、タボル山の(ご変容の)光においてキリストを見分ける「まなざし」
とならねばなりません。かくしてイコンは、それを黙想する者を、イコンにおいて形態をとっ
た内的観察を通して見通すように導きます。

イコンの表情は硬直しています。子供が見たらやはり「怖い」と言うでしょうね。正教会の方はこれらを「描かれた」ものではなく「書かれた」ものであるといいます。つまり目に見ることの出来る「聖書」だからだということです。そしてその図像表現は伝統を踏まえていなくてはならない。だから全て同じ表現で書かれています。それらが様式化されているのは、典礼秘跡が様式化されているのと同じことなわけです。つまりイコン自体が秘跡的存在であるからこそ様式化されるのです。(肩が凝ったので、続く)