「典礼の精神」ヨゼフ・ラッツィンガーを、読む
教皇葬儀の司式で一躍有名になってしまったバチカン教理庁長官ラッツィンガー枢機卿。保守派の急先鋒などといわれ、確かに顔もノスフェラトゥみたいなので怖そうです。次期教皇コンクラーベ・トトカルチョではかなり高得点のオッズ。有力候補のアリンゼ枢機卿をぬいて3位につけています。
例↓
http://www.paddypower.com/bet?action=show_type_by_main_market&category=SPECIALS&ev_class_id=45&id=520
その彼の典礼に関する著作が昨年翻訳されました。「典礼」とはカトリック教会の秘跡に関わる重要な儀式を構成するもののことで、ミサの進行や形式、それにかかわる音楽や美術、教会建築など、秘跡をいかに伝え、そこに存在させるかといった、つまり茶の湯のお作法とか茶室芸術とかそういうものと同じと考えて下さってけっこうです。
カトリック教会はよく「聖書のみ」とするプロテスタントから「形式的である」と批判されます。確かに茶の湯などもそうですが高度に儀式化しているものは即座に理解も出来ず、足がしびれるとか退屈だとか思う人もいます。(それは親に無理やり習わされていた私のことだ。。)イエスは大衆の為に来られ、人々に判りやすい言葉で教えを説いたのに、判りづらくして特権的になってしまっている。イエスの精神とは反対の事をしているではないか。などと言われてしまっても仕方ない側面もありますね。
ただ、カトリックや東方正教会は不可知の神を知ろうということからはじまったのですね。イエスという「人」ではなく「父なる神」「子なる神」にまず着目していたのです。イエスという人に着目しはじめたのはおそらく14世紀頃の西方教会辺りからでしょうね。十字架の磔刑像が生じた当たりからだと思います。
さて、儀式化したなかに遊ぶということで言葉によらない思想なり何事かなりを得る事も多いのはおそらく茶の湯などを体験なさっている方は知っているでしょう。昔の人は神の神秘もそのような形で認識することで神との交流をはかろうとしたのだと思います。その後、典礼は2千年もの間に試行錯誤を繰り返しながら構築されていったのですね。
その「典礼」に向かう精神についての超マニアックな、カトリック的オタク本をしばらくこの場を借りてぼちぼち読んでいこうかなぁと思っています。この本に関しては一昨日のエントリーで紹介しました。とりあえず目次だけここに抽出しときます。
現代カトリック思想叢書21 「典礼の精神」
ヨセフ・ラッツィンガー枢機卿 著 濱田 了 訳●主な目次
第1部 典礼の本質について
第1章 典礼と生活
第2章 典礼・宇宙・歴史
第3章 旧約から新約へ第2部 典礼における時間と空間
第1章 典礼が持つ空間と時間との関係についての予備的考察
第2章 聖なる場所
第3章 典礼における祭壇と祈りの方向性
第4章 聖体の保存
第5章 聖なる時
といっても頭から取り上げるのは退屈なので、興味あるところから適当に取り上げていこうかな。と思っています。
しかし、すぐ飽きる性格なので気が向いたら書きますです。期待しないで待て(続く)