三位一体

昨日は「解放の神学」というものを通じた、個の在りようと他者へのまなざしについて書いた。実際、まずおのれ自身を見つめない限り、他者というものは見えてこない。そしてなにより祈りの中では神と自分自身という関係の中で黙想する場面は多い。それにおいて「わたくし」というものはタマネギの皮のようにはぎ取られ解体されてゆく。
しかしキリスト教は個の宗教であると同時に他者との関係性の中で語られる宗教でもある。というのも唯一神といいながら「三位一体」の神という摩訶不思議な様態の神を有するからである。神は何故か単一であると同時に複数という奇妙な存在であり、そこでは父と子と聖霊という3つの要素が存在しそれが互いに関係を築いている。それぞれのペルソナがどういう場面で私というものと関わって来るのかというのをなんとなく無意識で理解している。父なる神にイエスのごとく「アッバ(父)」と呼びかけ「あ〜〜頼むからなんとかしてくださいよ〜〜〜」と懇願したり、イエスという人の受難に自分の苦しみを投影したり、つまりリアル生きたその存在自体を自分の生に引き寄せて考えてみたり、今、ここに働くなにごとか・・つまり聖霊を感じたりといった案配。こういうのを無意識に日常的にやっているわけなんですね。
神のペルソナは互いに堅牢な関係を持ち、それらが互いに関係しあう。その様相をキリスト教は伝統的に親と子の関係で示してきたわけです。その関係の中で色々なことが語られ、秘跡が存在する。祈ろうとする私は一人なのに神はペルソナとして三人もいるわけでなんだか賑やかな変な神観だなぁと思います。