シベリア鉄道と東京の三浦さん

まだ、ソ連ソ連だったころ、ゴルバチョフが「グラスノスチ」とか「ペレストロイカ」などと言っていた頃。わたくし同様、やくざな自由業従事者I女史と共に「とにかく倫敦まで空を飛ぶ手段を用いずにたどり着いてみようよ。」というコンセプトの元に一ヶ月半の旅に出ることにした。金持ちではないが、時間持ちな身分のなせる業である。当時、シベリア鉄道の旅は飛行機を使うより遥かに安かった。途中下車をしあちこち泊まっても安い。
横浜港からナホトカまで船で2泊3日。ナホトカからハバロフスクまで車中1泊。ハバロフスクで一泊して後、いよいよシベリア鉄道を走るロシア号という名の汽車に乗る。シベリア鉄道の起点はウラジオストックなのだが、当時ここは軍港なので外国人の立ち入りは許されていなかった為にハバロフスクからの乗車となる。
ロシア号にはハバロフスクからモスクワまで同じ行程を共にする人々が数名いた。バックパッカーの学生、女子大生のペア、アイルランドに帰るアイルランド人のコンピューターエンジニア。これらロシアにとっての外国人が二つほどの車両に押し込められていた。総勢から言って結構な人数である。ロシア人はこれら西側の人間と違う車両にいて分離させられていた。こうした隔離政策は、西側をまだ警戒していた時代の措置。
この旅程では色々な変な体験をすることになるがもっとも驚いた体験は「東京の三浦さん」である。

● 東京の三浦さんの話
東京の三浦さんはハバロフスクから乗り込んできた。日本人のパスポートを持っていて、どうも「三浦さん」というらしい。「らしい」というのはこの人は一言も口を利かなかったために誰も会話をしていないからである。この名を聞き及んだのはコンパートで同室となった日本の女子学生で、車掌のチェックのときに知ったらしい。
とにかく三浦さんは変である。そのいでたちたるや、ショッキングピンクのナイロンの安物のワンピース(襟に白いレースが少しあしらってあるのが唯一の飾り)に身を包み、長旅にもかかわらず所持品は安っぽいナイロンのボストンバック一つ。極めつけはそのお化粧で、何故か平安時代の貴族のように丸い眉を額に書いていた。ここからして既に「日本人????」という疑念が起きる。さらに行動も変だ。常に、同室者に対してすら沈黙をしているだけならまだしも夜になると何故かバックを抱えてデッキで寝ていた。寝台車にもかかわらず、そのベットで寝ないでデッキで寝ているとは。電波な方がまさか一人旅などするはずもないので、同乗した人々の間で「あやしい」ということになった。
一言も発しないのは日本人じゃないからである。デッキで寝るのは寝言を言って国籍がばれるのを恐れたためだ。つまりスパイや工作員、または亡命者ではないのか?と皆は推測した。日本人を監視するためのソ連のスパイか?あるいはなんらの目的を持ってソ連に潜入しようとする北朝鮮工作員か中国人工作員か?ソ連が送り込んだなら車掌や各車両の世話係の鉄道員に任せればいい。やはり北朝鮮か中国辺りの人間か?しかしこんなちゃちなスパイや工作員がいていいもんだろうか?日本人に成りすますにしても間違った認識はなはだしい。昨今の北朝鮮の幼稚な様を見るとありえるかもしれないが、とにかく謎である。
こうして謎の東京の三浦さんは我々一行とともにイルクーツクに到着し、共に外人様ご専用のホテルインツーリストに泊まられた。
二晩ほど明けて、再びモスクワまでの行程を消化すべくロシア号に乗る。ハバロフスクから日程が一緒だった人と共にホテルからイルクーツクの駅までバスで行く。そこで集合して車掌が「本日乗り込むガイジン」の確認を行う。「東京の三浦さん」も同じ行程だったらしくリストに載っているのだが何故か姿が見えない。しかもバスには三浦さんのあの安物のナイロンのボストンバックがある。荷物だけ残して三浦さんは消えてしまった。
消えてしまった三浦さんのその後を知るものは誰もいない。ロシアに亡命した中国の人なのか?北朝鮮の人なのか?あるいは工作員だったのか?今となっては確かめるすべもないが、とにかく謎の人であった。

他にもシベリア鉄道では笑える話がたくさんある。ソ連だった頃の共産ロシアのトンでも文化には色々驚かされた。この話は色々な人にしたので憶えていると思うけど、鉄道軌道上で火事になった汽車をたった二人でのんびり消火しているおじさんとか、新しい鉄橋のかかる川の河川敷に、前の「鉄橋」が捨ててあったりとか、ノボシビルスクの軌道に沿って延々と鉄くずである戦車や汽車が積んであったとか。なんか〜〜無駄が多いんですけど。しかし無駄を解消しようとして失敗した例もある。

●あやしい缶詰の話
ハバロフスクで車中で食するためのサケの缶詰を購入した。他の日本人学生も色々買い込んでいて、みんなで買ったものを持ち寄って食事でもしようということになった。サケの缶詰は味がついていないのであまりおいしくはなかった。調理用だったのかもしれない。しかしもっと不味いものがあった。学生の一人が購入した缶詰の「わかめのトマト煮」。これがすこぶる不味い。いったいロシア人の味覚はどうなっているのだ?調理用にしてはおかしな組み合わせだ。こんな変な料理素材。どうしろというのだろうか?
この謎が解明したのはすべての旅を終えた成田からのシャトルバスの中であった。たまたま隣に座ったのがソ連帰りの商社マンであった。なんとなくソ連の物の欠乏と末期症状の話になり、そのたとえとして商社マンは「いやはや、ソ連はむちゃくちゃですね、流通も酷い。最近はわかめとトマトが豊作だったけど、流通がなんせアレでしょ。で、それを腐らせてもまずいと思って、なんとその二つを組み合わせて缶詰にしちゃったんですよ。そんなまずいもの誰が食べるんですか?」
・・・・いや。わたくし食べました。
なるほど。そういうコンセプトだったのか。ロシア人の味覚が変ではなかったのだ。

しかし広い大地に住む人の懐の深さやおおらかさには助けられた。三浦さんがいなくなったあとのシベリア鉄道の行程ではロシア人のバブーシュカ(ばあさん)と同室になったけど、我々を子供だと思ったらしく「この子達にご飯を食べさせるのは自分たちの義務だ。」と、ご飯時になると部屋に呼び戻され、ばあさんの差し出すおいしい即席サンドイッチにあずかったものだ。まったく言葉は通じないんだが(こちらはロシア語が出来ず。向こうは英語を知らないために共通言語がない)それでも身振り手振りで色々な話をした。どうやらモスクワにいる子供に会いに行くらしいとか、旅のちょっと前に階段から落ちた為に腰が痛くしんどいとか、我々の年齢を知ると何故結婚しないのだ?といぶかしがられたり、なんとなく沢山の話題ではないけどのんびり色々な話をしたのを憶えている。
あのバブーシュカに会いにまたロシアに行ってみたいけど、どこの人かも分からない。元気にやっているのだろうか。