言語コード・日本文化

昨日、「言語のコード」について書いたが、言語環境という習慣が人間の思考ルーチンをも変えてしまうのではないか?というようなことを、だらだらとまとまりもなく書いていたが、きょうも、だらだら徒然なるままに書く。
わたくしは視覚人間なのであらゆる記憶を視覚として保持する。象形文字である漢字文化のお陰で文字情報も絵として記憶する。だからカタカナの名前とかひらがなの名前には極端に弱い。覚えられない。それに字面として覚えないと他人の名前も覚えられない。この人は全体的に画数の少ないすっきりした人。とか苗字から末尾にかけてグラデーションですっきりする人。などと印象で覚える。ついでにその字面には色も微妙についている。
だから音声言語には異常に弱い。さらに人の話を聞くときは絵を描いていないと記憶できないとか欠点もある。学生時代、授業中に落書きをしてよく怒られた。国語のように先生の話を聞いていさえすれば反復記憶の必要のない授業などは点がよかったが、授業態度としてはとにかく延々落書きしているわけで、はたから見ると話を聞いていないくせに点だけ取るという先生としてはかわいくない生徒だったと思う。わたくしとしては先生の話に集中するために手を動かしていただけなので怒られるのは不本意ではある。
とにかく、言語環境は人間を形成するし、またその文化環境を自然に吸収してゆく。イタリア語を延々聞く環境にいると、とにかく音が一番重要なのかね?というほど末尾の音をそろえたりテンポを重要視して、音の身体的感覚へ意識が向かうようになる。音楽が好きな国民というが、言語そのものがそういう文化なのだ。
日本語も文語の文化はそういうものだったとは思う。リズムが意識される。「文」語というわりに話し言葉を意識した「口」語より音に鋭敏。
さて、昨今はカタカナ言語やひらがな言語をむりやり日常に持ってくるようなのが多くなった。わたくしのような象形文字人間にとっては辛い。統合後の銀行名が未だ覚えられない。記憶に入ってこないのだ。同じように個性のない都市名、「南セントレア市」などという言語道断な歴史文化もない名前など、おそらく永遠に受け付けることはないだろうなぁ。と思う。皮膚感覚に、身体感覚に馴染まない名前は不幸だ。無国籍風を喜ぶ風潮は結局根無し草、自己のアイディンティティを持てないような借り物の世界に置かれるような不安感があると思う。南セントレア市には色も匂いも感じない。今でこそあまりに変な名前なので覚えているがこういう名がどんどん増えていったとき、都市は無個性となり、ある種の実のないグローヴァリズムに包括されていくような不安を覚えるだろうなぁと思う。
日本には固有の文化があり、日本の言葉は、漢字、ひらがな、カタカナをその都度、適切に用いながら育んできた長い歴史文化がある。そういうモノを無視したような文化が蔓延するとき、社会不安はより増大する気がするんだが。実際、子供の犯罪の増加、子供への虐待などもそういうとこに根があるんじゃないか?無意識のストレスは環境的不安から来るが、それは固有の文化の喪失とも関係があるんじゃないか?などと思ったりするけど、このあたりはまだ分析中なので保留。
とにかく日本の伝統的なものは日本人として大切にしたほうがいいです。ほんと。まじに。横文字を理由もなしに無理やり漢字に当てはめるようなのもやめた方がいいですね。「南遷都麗市」とか。馬鹿っぽい以前にアイディンティティを感じない。横文字文化には横文字の伝統があるわけで。まぁ、わたくしは耶蘇なので、そのあたり悩むところですが。「神」という名もキリスト教のDeusとかDominusとかと微妙に違うだろうし。