言語コード

ブログを毎日書くようになってから、気になる癖がついた。思考が文章化されるのだ。話し言葉ではなく書き言葉で思考しているようだ。これがすこぶる気持ちが悪い。もともと絵描き人間なわたくしでもタマに文章を書く仕事を頼まれる。そういう時は思考を文書書き脳に切り替えるのだが、描くことから書くことへ移行するというのはあんがい難しい。無意識にやっている行為を意識しなくてはならなくなったり色々。ところが毎日書き言葉を記すという行為をし続けると思考が書き言葉に変化する。これが慣れていないので気持ちが激しく悪いのだ。世の中の文章書きの仕事の人々はこういう思考で考えてるんだろうか?どうなんだろう?慣れない行為だからおかしくなっているだけなのか?
海外に行き、滞在が長いと、当然、その土地の言葉に馴染み始める。そうなると思考までその国の言語になるときがある。まともに話せもしないくせに何故か英語で思考していたり、イタリア語の単語で思考していたり、そんな時とっさに出てくる言葉もその国の言葉になってしまう。んでもって、帰国してしばらく変な言葉の人になってしまう。チョイ前までは形容詞をしばらくイタリア語で口走ってしまってよく人に笑われた。英語で道を聞かれたときもイタリア語の単語しか出てこない。「JRすたちぉ〜ね?ディス すとら〜だ あんでぃあ〜も」などとアホみたいに単語を並べるので、相手は困った顔をしている。
義理の弟は長らくアメリカに住んでおり、両親は帰国したけれど、子供たちはアメリカに残った。育ちがあちらなもんで完全なバイリンガル。苦労はいらない。しかしその性かお姉さんの言葉が少しテンポが変である。前にニューヨークに遊びに行ったときに遊びに行った友達の奥さんがそうだった。テンポが緩やかで、どうも脳の中でトランスレーションをしないといけないようである。(何故か義弟を含め、男連中は全部大丈夫なのが不思議だが。何故だ?)
親戚に何故かイギリス人がいる。その人は戦前、うちの祖母の従兄弟が外務省にいたころにイギリスで出会い、嫁いできた方なのだが、その子供は当然「混血」。敵性国の人間だというコトで戦時中、戦後含め、色々苦労したようだ。(軽井沢の収容所に入れられていたりね)お兄さんのほうはいかにもアングロサクソンな風貌。弟のほうは日本人の遺伝子を多く受け継いだ。で、お兄さんは日本語が下手である。かなり早い年齢でカナダに移住してしまったからであるが、日本語をうまく話すことは出来なくなっている。兄弟や家族間で言語に差異があるというのも面白い。
知り合いに帰化したアメリカ人がいる。彼の子供は日本生まれの日本育ち。金髪に青い目のいかにもアングロサクソンな風貌なのだが、実は英語が話せない。彼女の悩みは「知らない人に英語で話しかけられること」英語の成績もすこぶる悪いそうです。彼らと旅をして帰国したとき、彼女の親父は税関で「外国人はあちらの列ですよ」と親切な人に話しかけられて激しく怒っていた。へたくそな日本語で「ワタ〜シは日本人だ!!!!ナニいうか!」と、言われてもねぇ・・・。
長く外国の土地に住むとその国の言葉で思考し始めるそうだ。私自身の体験からも、なるほどそうだろうなぁと思う。その言葉で思考し始めたときに初めてその国の文化を理解するんだろう。体や感覚がそういう風に作り変えられていくのだと思う。そういえば生涯の中で日本にいたほうが長いイタリア人司祭は我々以上に日本的思考で物事を考えていたなぁ。
やはり、習慣による思考の変化をいうものはあるのだろうか?言語的人間になるとどうなるのか、しばらく様子を見てみよう。