ネト友人が帰ってきた。

久しぶりにネト世界にガメさんが帰ってきた。仕事で忙しかったって話を聞いていたんだけど、あんなことがあった後なんで心配していたんだけど。よかったです。

がめ様>

いろいろ心乱されるようなことがあって大変だったと思う。

まぁ過ぎたことなんで具体的なことであれこれ言わないけど、なにか批判を受けた場合、反論するときに対立した相手に対し「品性下劣」とか書いちゃうのは、たとえ自分が心の中ではそう思ったとしても、いったんこのようなマス媒体に書けば、単なる人格攻撃にしかならないし、よろしくないので、気をつけた方がいいというか、それは対立の泥沼化、炎上フラグになっちゃうです。批判された論に対し落ち着いて論を返していくのがいいと思うのですね。反論くりゃぁ、気持ち的にむかつくのはしょーがなかったり、内容如何によってはその怒りこそ正当だったりするんだけど、それでもやっちゃぁおしまいなことがあったりする。

今回の件で、ガメさんに向けられた偽外人疑惑に対して怒りを覚えたのは、まぁ書き手がどういう人生を送っていて今があるのか?なんて誰にもわからないことだし、特に日本語がうまいというだけでレッテル張りをしてしまうのは、これもまた人格攻撃にしか過ぎない。

・・・・というのも、わたくしにもイギリス人の親戚がいて、その混血の子供(ったって、年齢的に父世代なんだけど)は外交官だった親のせいで戦前は海外育ちであり、戦中に敵性人の子供ということで軽井沢収容所に入れられた経験を持っており、その記憶が強い兄は日本語が下手。それよりあとに生まれた弟は日本語が巧く、国的なアイディンティティと言語というのは必ずしも一致しないという事例を目の当たりに知ってるからなんだけど。
他にも親父がアメリカ人ゆえに金髪碧眼だけど、日本育ちで英語の成績がすこぶる悪く、ネイティブな日本語しか使えないけどどっかでやっぱりアメリカンだよなーという子を知っていたり、まぁ言語と文化的背景や民族など、ティピカルに考えることは出来ない。だから、単純に用いている言語から類推して民族的レッテル貼りをする、そういうレイシズム的構造にはなーんか腹が立ってしまうんですね。

批判された、外人の言葉ありがたや現象なんぞ、もしそんなことを考えているなら有り難いと思う方がおかしいというか、そのような権威主義的な構造などなんら意味をなさない。外人だから、学者だから、専門家だから信用がおけるのではなく、書かれた内容が信用がおけるか?否か?だと思うんですね。んで、書かれたことがおかしいと思うなら指摘をすればいいだけの話で。

もっとも、ネット時代にあって陰謀論を容易く信じる的な、あるいは陰謀論めいたものが流布していく現象はより顕著になってきているんで、ある種の警戒は必要だとは思うのですね。今回はそれを警戒した人があれこれ言っていて、その警戒する気持ちというのはわからなくもない。でも、そういうことをぶつけられても困っちゃうことはある。

まぁそもそも、ネット媒体というのは編集によるチェックや校正の手の入る紙媒体と違い、他者的な検証のフィルターを通さずに出されていくものなので、信用度という点において危うさはあると思う。それはガメさんも指摘していたですよね。わたくしもほんとにそう思うのです。

だから逆を言えば、自分が書いた意見に対し、全く異なる意見、間違いの指摘、反論が起きることは自然であり、ゆえにそれを織り込み済みでブログを書いていくしかない。だから批判的な指摘が生じたときどのように対応するか問われるとは思います。まぁ腹が立ってしまい、冷静でいられなくなってしまうことの方が多いと思うのだけど、そこで堪えないといけないというか。

で、私はほんとのところガメさんのエスニズムなんてよくわかんない。
でも、そういうあたりでどうこうというよりガメさんという人が書いているブログを面白いと思っていたし、海外事情に詳しい外部的視点を持つという個性を持った一ブロガーの記事として読んでいたし、意見そのものに関しては、同意出来ることもあれば、ナニそれ?なときもありましたね。

でも、なんちゅうか、様々な事象に興味を持ち考え続けているあたりとか、コメントでの応酬での話の広がりとか面白かったし、ガメさんの思考の中にある種の揺らぎめいたものを感じるあたり(例えばキリスト教に関する宗教問答をしていたときにそれを感じた)で、いいなぁというか、怒るとはなはだ困った人になるけど、本性は誠実さを持ってる方だと思って読んでました。そういう読み手は多かったんじゃ?

んで、実はこれはガメさんが以前あるブクマカさんに怒ってしまったときに私がそのブクマカさんに感じていたことでも同じなんですが。私は個人的に何らかの揺らぎめいたものを持つ人の方が断定めいたことを言う人より信用したいと思うところがある。明快な正義を以てなにかを断罪する人よりは、正義と罪との合間でどこかで揺らぐ人というか、そういう人にシンパシーを感じてしまうのです。明快な正義に汲み出来ず、対立する構造の中で揺らいでいくような人というのがいる。一瞬ぎょっとしたことを言うけど、その背後にいろいろな思考の揺らぎの片鱗が見える人というか。

あの件でガメさんが怒ったのは無理はないとは思うけど、わたくしは私個人として異なる視点を持つんで仕方がない。ガメさんはそういう私を「人を信じやすい人」と思うかもしれないけど、根が糞カトリックなんでしょうがないかも。そういうロジックで思考してしまう。赦しの宗教というものが持つ二重性、矛盾性でもあると思うけんど。正義や罪の明快なガイドラインが存在し、尚且つ赦しの秘跡を持つというマッチポンプ宗教の思考という感じですかね。だからご都合主義的にも映るかもしれない。(もっともカトリックにも原理主義者はいるし、或いはすばらしく揺らがずに尚且つ中庸な人ってのもたまにいるんで、私のような人間ばかりでもない)
まぁ、論や行為を疑ったり、否定しても、その人自身に対してはどこかで信じる。それは神のみぞ知る的な領域でもあるが故に、それに於いて「信じる」と。

とにもかくにも戻ってこられたことに感謝してます。
なんせ、あの怒濤のような言論垂れ流しブログを読めないのはつまんないからな。