長崎で永井記念館とか行った

首都にはいないが首都日記。
TUTTIのぱそを借りて打ってるのはいいんですが、ウィンドゥズのビスタだかヴィスタだかいうインターフェイスが使いづらくて辛い。余分なボタンが多すぎて、かつてのマツダ車のようだ。Macの単純なインターフェイスでないと私のような単純な人間には扱えないのである。

けふは朝から佐藤栄作元首相の秘密のお話が暴露されたニュースが流れていた。なんでも中国様が核攻撃してきたら核のお返ししてね(はぁと)とか言ったとかなんとか。
まぁ、冷戦時代、西側のアメリカの俗国である日本は東側諸国の敵であり、相手がいきなり攻撃とかしてきたらアメリカにより頼むしかないし、被爆国日本としては非核三原則を守るのは重要なんで当然の密約だろう。汚れ仕事はアメリカにやってもらう代わりにアメリカのポチであることを約束するしかない。
こういう関係性は、冷戦というとにかく気が狂ったような状況ゆえのことでもあり、国家というものはその国民を守るために暴力的にならざるをえないような側面があるというか、とにかくそういうものをどこかで内包するのが「国家」的なものの性質にある。ゆえに戦争か死、もしくは奴隷化かという究極の選択を迫られないための理性的な判断とか、狡猾な外交駆け引きが必要になる。
核の抑止というのはある種のそうした狡猾な駆け引きによって成り立つ。しかし核というのはそもそもが気の狂った存在だし、そんなものが存在してること自体が何かおかしいという代物であったりする。

そういうニュースが流れている本日、運動不足解消のため散歩に出たら、永井博士の記念館の前を通った。なのでなんとなく寄った。
永井博士は白血病と宣告された身な上に自身が被ばくしながらも、被爆者のために奔走し、永年の平和を訴えかけたという偉い人である。その生涯のすざまじい記録をさりげなく紹介してるのが永井博士の資料館で、たいした資料はないんだがそんな少しの資料だけでもすごいなと思っちゃうような存在ではある。
いち早く被爆者の精神面でのケアについて考えていて、「世間は原爆病の病理的なものとか物理的被害の規模の話をするけど、被爆者が受けている精神的外傷についてもっと考えなきゃだめだ」とかいう手記が残っていた。

ついでにサンパウロに寄って、なんとなく原爆資料を買った。んでいろいろな記録を読んでいたが、なんつーか、とにかくとんでもない。

この手の記録を見ているだけでも核というどれだけ気が狂った存在か分かろうというものである。

こんなものはとっとと人類の文明から消滅させたほうがいいと思うんだが、世界がいまだ闘争してるんでそうもいかないムヅカシイ代物になってしまっている。

ところで永井博士は自分たちの被爆体験を宗教的な理解に落とし込み、己の罪ゆえに神からのひとつの与えられた何事かの試練みたいな、この理不尽な体験をそのように納得させるしかなかったというか、それについては以前書いた。なぜかうまくURLをコピーできないんで、URLを記せないんだけど過去の2007年8月18日の記事を読んでほしい。

ここで起きるのは前記事に紹介した「敗北主義的な考え」への批判である。
永井博士が単純な敗北主義からそういう考えに至ったのではないことはすでに書いたが、しかしこの考えが被爆者の様々な問題から向き合うことができなかったという批判につながっている。これは奇妙だなというか、永井博士は確かに向き合っていた。それは記録が物語っている。しかし広島のような強いメッセージ性を持つ運動になるほどの大きな動きが起きなかったのは、永井博士が政治の人ではなくあくまでも宗教の人だったからなのだろうか。
これは前述の記事でも紹介したが長崎の複雑な事情もあったとはいえ、やはり被爆体験が広島よりは語られていなかったのではとかいろいろ反省があるらしい。

現在、多くの被爆者の体験をまとめた書き物が出たとかいう話を長崎に赴任している某司祭から聞いた。それは政治色を排し、あくまでも体験的な話を後世に伝えていくためとかいう。うろ覚えなのでもう一度確かめないといけないのだが、それが本になっているなら是非読みたいと思って、実はサンパウロに寄ったんだがよくわからなかった。
聞くところの事情ではカトリック教会はその話に非協力的だったという。永井博士の流れとはまた異なるスタンスであるからとか、まぁよくわからない。もう一度聞きなおす必要はある。ただ長崎のカトリック教会は、左翼的な運動がかかわることにかなり及び腰だという話である。まぁそれは大変に賢明ではある。おおむね昔の左翼運動家の活動ってのは組織を政治的にオルグしたがる大迷惑な存在だ。しかしその本の話が政治色を排しているなら話は違う。社民党などで活発に活動してるようなのが加わっているとかそういうのでやだとかいうのもまた本末転倒で、その人が政治組織の代表としてものを言ってるのではなく、被爆者という個人としてものを言ってるなら、それは伝えていかねばいけない大切なことだし、協力してもいいんじゃないの?とか思うんである。
このあたりまだ諸事情が分かんないんで実は判断はしかねるんだけど、そういう話があるなら、まぁわたくしはこう考えますよという話。

教会に組織的な政治的な運動を持ち込むような馬鹿は大迷惑だが、教会として取り上げる切り口ではなかには重なるものもあるから、まぁどう関わるかってのは例えば被爆者の問題ならその人個人のイデオロギーなんぞは右だろうが左だろうが単に被爆者として関わるだけで十分だろうと思うし、協力してもいいんじゃないの?とか思っちゃうんですよ。

にしても核というのはまぁ繰り返しますが、気が狂ってるよな。こんなものを後生大事に持つ国々は全部気が狂ってるしろくでもないと思う。アメリカ様とか中国様とかロシア様とかじょんいるとか・・・・