「聖なる」ということについて>岡崎さんへの回答

ずいぶん前のエントリにコメントをいただいた。あまりに前なんで埋もれてコメントできなくなりそうなんで、こちらに回答エントリを起しました。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/comment?date=20050512
岡崎さんから幾つかの疑問等が寄せられているので、こちらをのぞきにいらっしゃっているギョーカイ関係者の方もよかったら回答してくらはいです。

岡崎 信幸 2008/09/20 00:14
(略)
ところでantonianさんは在世フランシスカンと自己紹介をしていますが、所謂修道士なのでしょうか。

ああ〜。
フランシスコ会など幾つかの修道会には第一会第二会第三会があります。第一会は男子修道会。第二会は女子修道会、第三会は在俗の会となります。
第一会と第二会は修道会の規定の誓約をし、生涯独身、共同生活を送るものたちです。第三会は世俗にあって創設者の霊性に従い生きるものの人々で共同生活は営みません。これには教区司祭なども含まれます。教区の仕事というのは実は俗界と関わる仕事に相当するので、そういう区分になるんですね。

で、私の場合は平信徒のフランシスカンですから、まぁ清貧、貞潔、従順というものを生活の場で展開していくことになります。もっとも、修道者のような厳戒に守るわけではないのである程度自由の幅はありますが、一応、聖フランシスコの理念を生きましょうよというお約束を神様と交わしています。

教会では聖性が強調され、ミサに預かることで、つまり御聖体を頂くことで私達が聖化されることが強調されます。まず聖とは何なのでしょうか。聖は江戸時代まではヒジリと読まれ、徳の高い僧のことでした。それが明治になり、「天皇神聖にして侵すべからず」という明治憲法2条に見られるように、人間が手を出してはならないと言う意味で使われるようになりました。そこで小泉さんが「聖域なき改革」と言うような使われ方をしています。一方カトリックでは聖なる物の内、最も聖なる御聖体を私達は口に入れ食べます。そこで私達は聖なる物に「ありがたい」とは感じません。私達にとっては神は聖なるものですが、侵すどころかキリストの体を食べています。そこらを無知な平信徒にも分かるように何か説明しては頂けませんでしょうか。

まずもって、わたくしも無知な平信徒ですから、きちんとお話できるかどうか自信はございませんが、わたくしが考えるところの範囲で考えてみたいかと思います。


・聖とはなんぞや?
確かに日本語の「聖」という宗教用語を洋もんのシロモノに当てはめた時点でなにやらわけわからんことになっておりますね。
「聖化される」とか「聖とされる」ということを一言で説明するのは難しいですね。まさにまぁそれを考えることは一つの神学的思索でもあり、一生かかって答えを見つけていくことでもあります。
神によって聖とされるというのはまったく受動的な行為ですが、神様の恩寵を受け入れる的な姿勢ではじめて成り立つものです。それは誰かにとっては思いの中で重荷になっていたものから解放されるような感覚でもあり、誰かにとっては神の愛に包まれるような感覚めいたものでもあり、誰かにとっては力の源となるものでもありましょう。
いわゆる、神道的な禊的な感覚での「聖」とはここが異なる点ではあります。穢れをはらわれた状態、穢れの無い状態を指すようなものではないというか。

・聖体について

さて御聖体の秘儀ですが、これもよく判らない。単なる小麦粉の塊、最中の皮を有難がって「キリストの身体」とか言ってる時点で、はたから見るとただの電波。思い込み。擬似カンニバリズム、キンモー!!!と、ローマ時代などは人食いの怪しい団体などと気持ち悪がられたようです。

しかし我々が食っちまうシロモノがその身体となるというのは、最後の晩餐という食卓の意味が大変に重要だからです。
まずもって我々耶蘇教は、イエスの最後、イエスの死、つまり十字架の死をキリスト教徒は人類の罪の贖いなどとみなしたりします。処刑の死を見越していたイエスが最後の晩餐で自分自身が「犠牲」となることを予言した背景には、伝統的な神への犠牲という行為、それは創世記のアブラハムがイサクを奉げた光景に重なります。ユダヤの伝統では神への感謝として羊を犠牲に差し出すというのがありますね。
その文脈でイエスは己自身を犠牲として差し出したのだという解釈をするのがキリスト教徒です。イエスは神ですから、神自身が人類の為に贖いをした。ということになりますな。
エスは晩餐の席で「これは私の身体」「私の血」などと言ってますから、まぁそういうことにしとこうぜってのが、キリスト教徒ですね。イエス様がそういってるんですから。私達はそれに従うわけですよ。
んでもって、そんなちっぽけなパンに成り下がってくれるほどに神は人類を愛してるのだなどと、自己中なことを考えているのがキリスト教徒です。
こうした、もっともへりくだった姿勢をイエスが示したことや、犠牲となったことをを思い起こしながら聖体をいただくわけですが、「ああ、この御聖体は今日はしけてるなぁ。」とか考えてしまうのがまぁわたくしのごとき駄目平信徒なわけですよ。

・葡萄酒は飲めないの?

ついでに「典礼改革期以降のミサを祈りと神へ感謝に充満した聖なるものとするために、いま一度原則に立ち返れとは常に主張しています。」と書かれていますが、御血は今まで通り平信徒は頂けないままなのでしょうか

これはまぁ、そもそも御血をいただかなくなった理由が、回し飲みは伝染病が蔓延しやすいということですから、変容はあってもいいんでは?とは思いますね。実際、少人数のミサの場合、御血をいただくことは多々あります。

カトリックより古臭い・・いや、失礼。古い伝統を色濃く残している正教会では御血をいただきます。正教会の重厚で祈りに満ちた典礼には見習うべきものが沢山つまっています。

・聖域の人の結婚について

教会で聖なる人達と言えば神父とシスターと修道士(ブラザー)を指します。何故この御3方が聖なる人達か私には分かっていません。どうもこの御3方が結婚をしていないからのように見えます。助祭に叙階された若い神父についてある日からパタリと主婦層の口から出なくなります。それで私が「...神父さまは今はどうしておられるのですか?」と聞くと、非常に強い嫌悪をあらわに、「結婚したの」と言う答えが返ってくます。私が「それはお目出度いことですね。どんな素敵な女性と出会ったのですか」と言うのですが、もう完全にすれ違いです。私には「例え結婚なされても叙階という秘蹟を受けられたのですし」と思うのですが、どうもこんな私は無知蒙昧な信徒だからのようです

教会に奉献した人々のことを我々は聖域の人間などといいますが、それは結婚してるからしてないからではありませんね。単にまぁ教会と結婚してしまった人々だということで。

しかしその道行きは大変なことです。特に聖域で閉ざされた観想修道会と違い、活動会などの修道会や司牧に関わる司祭などは、色々な人と出会いますから、中には司祭召名を得ながらにして、結局どなたか神様が見つけられたパートナーと出会ってしまう方もいます。

そういう方のことを一からげに嫌悪するのがいるとするなら、それはただの馬鹿なのですからほおっておいていいでしょう。

ただ、志半ばでやめてしまう半端もん。と看做されても仕方がないいいかげんな人も居ますから、ケースバイケースですね。

やはり誓いを立てた以上、最後まで貫き通す覚悟があるかどうかは問われると思います。こうしたことは当事者が一番苦悩することですし、熟考の上に結果を出すものですから、我々がどうこう言えるもんじゃございません。神様とその人が結論付けることです。

・性は聖とされないのか?

神の母マリヤもイエスの生母だからではなく、どうもイエスを産んだあとも終身バージンのままであったという教義故に聖なる女性だと教会の主婦層は思っているようです。一方その主婦層は夜な夜なご主人とアレで楽しみ、時々お腹を脹らませて教会に来ます。非常に嬉しそうな顔をして「もう...ヶ月で産まれるの」と言います。私はどうしてもふに落ちません。聖なるとは人間的な楽しみや喜びを持たないと言うことでしょうか。

まぁ、こういうバージンがどうのってのはわたくしは関心がありませんな。どうでもいいです。バージンじゃなきゃ清くないというアホは又吉イエスによって地獄の業火に焼かれるがいいなどと思うことはありますが、主婦層などと、人々を一からげに評価するのもどうかと思います。色々な主婦さんがいるでしょう。

もともと処女信仰的なのは父権制が生んだ固定概念ですが、イエスも童貞だったのかとかを議論するのが馬鹿馬鹿しいのと同じです。そう思いたい人はそう思ってればいいし、思いたくない人は自分の物語を想像したくなるだけでしょう。
そもそも、そういうことは聖書にはナニも記されていません。処女懐胎以降の彼らの物語がどうだったのかも聖書は追っていません。ですから「人はそこにみたいものを見る」だけなのです。

さて、我らが師父聖フランシスコは、常に歓びを見出すことを是としていました。また、あのなんだかシカツメらしくて気難しいじじぃな、聖パウロも「いつも喜んでいなさい」などといっています。かように聖なる人々は常に神に感謝し喜んでいたりするものです。

ついでに言えばセックスや出産はそんなに楽しいか?セックスなんぞは終わってしまえば空しいだけな気もするし、出産は命が関わるすごく大変なことでもありますね。子育てなどはすごく大変なことだと思うのですが、でも子を抱きしめているお母さん達は満たされた感じがありますね。その大変さをそのように喜びに満たされ受け止めている姿勢こそが聖なることだとも思ったりしますよ。第一、産めよ増やせよ地に満ちよってのは神様が命じた人類のお仕事ですし。


人には神様から命ぜられた召命が各人にそれぞれあります。聖とされるというのは神のその命じるものに常に耳を傾け、それに応え生きようとすることではないでしょうか。ですから世俗にあって聖とされる人もいると思うのですよ。

んで、聖域にいるはずなのに聖とされない人もいるでしょうね。教皇アレッサンドル6世とか。ダンテに地獄に落とされていた教皇ボニファチウス8世とかクレメンス5世などはどうしてるんでしょうね?


聖域とは空間、場ですから、そこにいる人が必ずしも聖だと限らないし、そういうのは死ぬときになってみないとわからんかもです。

以上が平信徒でいいかげんなわたくし個人が考えていることです。
もっと他の方や専門家に色々聞いたりしたほうがいいと思います。神父様に聞いてみたりシスターに聞いてみたりしてみてくださいです。ネットでも最近は色々な神父様が書いておられますから、ご質問してみてはいかがでしょうか?