宮崎勤とオタク文化の犯罪、母系社会

秋葉原通り魔殺人事件から数日が経った。彼がネットで心情を吐露していたことや、派遣社員だったこと、非モテであることの愚痴、更には事件の舞台がアキバだったということもあって、現代という時代を表すネタ用語に充ち満ちていたためか、ネット上でもかなり多くの人が色んな意見を述べていてそれを読んでるだけでいっぱいいっぱいだった。ただでさえ回線がおかしくて繋がらないこともあって、まぁ自分なりの考えとか備忘する気も起きずブログも放置しておりました。

で、先日、同じように世間を震撼させた「オタクの若者」による連続幼女誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤の死刑が確定されたニュースがあった。 
宮崎勤は実は私と同世代である。しかもこれに加えてオウムの上祐も同じなんで魔の年代などといわれている有様である。オタク的な感覚が犯罪に繋がっていくみたいなことで、宮崎勤事件以降オタクはどうも肩身が狭かったようだ。事件以前から学級に一人や二人いるオタクは、そのオタク的蘊蓄溢れる一方的トークといい歳こいたアニメ好きみたいな感じで、どこか浮いた存在であった。ちょっとついていけないところはあるけどアニメとかSFに詳しく色々教えてくれる子という感じ。嫌われている感じではないが敬遠はされてはいた。そして何故か人を指す時の人称が「あなたはねぇ」とか「きみってさぁ」とかではなく「オタクさぁ」だった。何故かそうだった。何故そういういい方を彼らがするのか不思議ではあったが、どうも我学級にいたその子が特別なのではなく、全国規模でそうだったらしく彼らのことを称して「おたく」などといわれるようになった。中森明夫命名したと記憶する。80年代のサブカルを象徴する存在でもあった。その中から出てきた宮崎勤という存在から喚起される「おたく」はオタク的価値をそこはかとなく理解出来る我々世代より上の大人たちには怪物に映ったようだ。宮崎のような犯罪を誘発したオタク文化への偏見がはじまる時代でもあった。その問題は常に若者の犯罪を語る時に持ち出される。二次元ロリ画像収集とか、残酷なゲームや漫画の影響等々。それらを若者の犯罪病理の要因として考えるというお約束がつきまとう。曰く犯人の家からゲームソフトが大量にあった。アニメソフトが大量にあった等々。
今回の事件に関して、そういった見解も一部にはあったが、どちらかというと非モテ的な孤独、格差社会問題等の観点で語られるものが多かった。自己を他者に承認してもらいたい欲と孤独という問題出語られているのがほとんどで、そういう孤独による怒りの暴発事件だったなというのはその通りだなと。佐賀のネオ麦茶バスジャック事件や、池田小の事件やすごく昔にあった渋谷のライフル乱射事件とかに通じる。
他方、宮崎勤というと、その後あった、新潟での幼女監禁事件や、テニスの王子様オタのメイドさん事件とか、そっちが近い。これらは今、問題となってるロリ画像規制の方向をつけていった事件でもあるな。

そういえば、最近読み返したポール・セローの旅行記に面白い記述があった。

鉄道大バザール (1977年)

鉄道大バザール (1977年)

阿川弘之がセルーと訳しているが、村上春樹が訳した『ワールズエンド』以降はセロー表記になっている。ポール・セローは翻訳者阿川弘之同様、鉄オタで、阿川がこの書を訳すきっかけになったのは単に鉄オタ繋がりだったという。
で、セローは70年代にロンドンから鉄道で延々インドやパキスタンなどを通り、東京までやってくるという旅をしていて、日本でも北海道やら関西まで、新幹線や寝台車などに乗っている。その時にあちこち見聞していることがかかれているんだがこれが面白い。
東京では近松門左衛門ネタのショーがあるというので日劇ミュージカルホールに行き、それがまぁネタがネタだけに単なるSMストリップショーだったのだが、日劇の観客は皆普通の紳士淑女であり、そういう人々が血みどろなストリップをしたり顔で見ているのに度肝を抜く。また列車の伴として日本での人気作家、江戸川乱歩の小説を読みはじめるが、これがまた猟奇的な内容の話ばかりであり、『人間椅子』を読みながらそこに登場する偏執的な『醜い男』のモデルにでもなりそうな列車の同乗者の姿を見つけ、その乗客の余りにも普通の善良さと、小説の中の非日常的な変質性とのギャップに苦しめられる。そして新幹線の中ではとなりに座った若い娘が読みふける漫画本を、彼女がトイレに立った隙にこっそりと手にとり、そこに描かれた残酷なシーン。人殺しやらカンニバリズムやら、暴力的なシーンの連続に驚かされ、およそ普通にしか見えない若い娘さんが読むモノと思えないギャップこれまた苦しめられる。(いったいどんな漫画を手に取ったのだろうか?)一部の芸術的な嗜好をもつような人々ではなく大衆に膾炙しているかのような性と変態の文化、社会的な秩序のあるこの国の人々とのギャップに驚きを感じたようだ。(ただし酒を飲んだ日本人はその範囲外)
この文化的な違和感を彼は結局・・・

「勤勉極まりなき工場労働者みたいな日本人たちは、性的にすっかり消耗してしまい、自分ではやる気もないし、やれもしない行為を、ただ眺めて楽しむという、一種微妙な域に達しているのではあるまいか。他の色んなことも同じだが、高度の科学技術と文化的デカダンスとの日本的結合がそこにみられるのではないだろうか。

この所感の是非はともかくも、旅で訪れたアメリカ人作家が見た70年代の日本と今とはあまり変わりないんではないかと思う。
オタク文化の特に日の当らない変態的なエロとか2次元ロリとかは正しく近松の文化であり、乱歩の伝統であり、昭和の根底から平成にも途切れることなく受け継がれてきた大衆文化であったということだ。。

だから犯罪というのはそういうものと切り離して考えていかないといけない。

かつて親殺しをした金属バット殺人事件を取り上げた藤原新也もたしか宮崎勤事件に言及していたと思う。「幼児が幼児を愛好する」図式というようなそれを幼児的な自我として、母親にしがみつく現代青年問題として指摘していた。彼の著作『乳の海』では、巻頭に聖母マリアの形をした「死の抱擁」と呼ばれる拷問器具のエピソードが挿入されている。

乳の海 (朝日文芸文庫)

乳の海 (朝日文芸文庫)

聖母に抱かれて死ぬ異端者達の光景は、現代の若者ー特に若い男性に見られるのが多いのだがー母親の異常なまでの管理社会に対するモノに通じるとして、この著作のテーマの象徴として紹介されていた。戦前が父権的な管理社会であった、或いは西欧のそれがそうであるのと違い、戦後の日本の母親の偏執的な管理社会を告発しているのがこの著作だった。

今度の秋葉原の事件にもそういうものがあると指摘されてはいる。そして当の藤原新也氏もそれをエントリしていた。

Shinya talk
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20080618
○加藤智大や酒鬼薔薇聖斗にならずひっそりと死んでいった無数の青年

日本全体のエートスがそうならこれは彼らの家族の問題だけではない。家族を追いつめるのではなく己自身が問うべきことではあるなと。それは母親が孤立していくような、つまり子に向かい過ぎざるを得ない母子の孤立感というのはよく散見出来るんだが、そんな社会のあり方もまた考えないといけないのではないかなどと愚考中。

因みにモンスターペアレンツなるものはアメリカにも多いらしいんで、親の過干渉は日本だけじゃないかも。