ネット時代に生き残る術についてあれこれ考えてみた

先日、瀬尾准教授事件で瀬尾さんの批判者の方とあれこれ話す機会があって、まぁ世の中の教授幻想というか、教授かくあるべし的な期待観が根底にあるんだなと。で、そういうのは実は大切かもしれないよなとか思っていた。匿名2ちゃんねる的な言論を大学教授の肩書きでしちゃ品位ないだろという意見にはまったくその通りで、たしかに傍観者的に「馬鹿だ。」などと私も思っていた。当事者的な立場というか彼女に近いとこにいればいる人ほど、怒り度は強いだろうなと。
まぁわたくしはそれを問題化する時のやり方がこれまたえげつないなぁと正直に思ったので、えげつないなと感じた部分がなんであるのか、まぁそういうことは率直に書いたが、彼ら批判者の問題意識自体は間違ってはいないと思う。人は文責というものがあり、語った言葉に対する責任は生じるわけで、まして立場をあきらかにしている人はその立場をも引き受けて語らねばならない。つまり立場に対する同朋への責任が生じることを自覚すべしであるというか、件の事例では青学と世の中の「教授」などと呼ばれる立場の人々への責任認識が欠けていたという按配ですな。それをして人は社会性という。社会に対する責任を負うということはネットが開かれた場である以上、生じるのだな。

さて、なんでこんなこと書いてるかというとわがギョーカイでも色々ブログを立ち上げる方がおりまして、今はギョーカイも司教から司祭、修道士、修道女、信徒まで、web2.0の時代に突入したわけですな。ま、宗教関係なんで当然荒れたり批判が来たりするだろうことはうかつに振る舞えば起こり得る。幸いにしてどうも皆さんそういう振る舞いに長けていて、聖職者レベルでの炎上は見たことがない。何故かというと我ギョーカイ、ちょいと前の世紀半ばまで「禁書」などというトンでもなことが平気で行われていたギョーカイであり、お上であるバチカンの意向に沿わないものは平気で駄目出しを食らうのは今もある。まぁ頑迷で自由思想がないことの典型的な例でもあるわけだ。思想の中央集権化、公的なものには思想プロパカンダが行き届いているというか、制限付きの自由しかないというか、それって、つまらなさそー。というか。(但しタマに暴れまくる学者とか出てくるが、神学レベルだとわたくしのような馬鹿レベルには判らない次元の学の世界で延々と何世紀も解決を見るまで論争やってるんで侮れない。)

反面、それは公的に発するものは組織に帰するという考えが徹底しているともいえる。つまり公に聖職の身分の名でなにかを発言する場合、それはその人個人に完結するだけではなく、組織全体が責任を負いますよという覚悟の現れでもあり、同時に発言者はそれを負う覚悟がありますか?と常に問われてくるわけでもある。ゆえにまぁ組織の人々の振る舞いはそういう辺りに常々意識を持つので、穏当になるんだろう。
そういうわけで、わがギョーカイ人の、それも聖域のヒエラルキアにいる人のネット公開される言論やブログは世間様とは別の次元で淡々と書いてる人が多い。言葉を選んでいる感じがするし、見るからに温厚そうだなと思う。但しホッテントリには入らなさそうだ。笑)

ただまぁ組織内レベルでは、つまり小さなギョーカイなのでネット発言で生じた実存レベルのトラブルなんかはあるけどね。公開された情報を読んで驚いた信徒が電凸したとか。コピペ貼られて流言状態とか。この神父異端じゃね?とか。つまりギョーカイレベルではトラブルもあるので結局社会と同じことは起こる。

で、ブログを荒らさぬためにナニを留意したらいいんだろうか?ということで、自分なりにこうしとこうと思ったことを期しておきます。

1・罵倒コメント・トラバが来た場合

罵倒コメント・トラバは流石にちょいとむかつきます。しかし罵倒する人というのはその言の葉の陰に罵倒したくなる言い分を持っている人が多い。

・削除しない
そういうわけで、罵倒コメント・トラバの対処としては、削除はもっとも愚の策である。これは炎上の道を約束されたも同然である。発言を一方的に消されるというのは大変に嫌なものである。これは人に憎しみの種を蒔くだけの行為である。己のブログにエントリ内容への批判罵倒が掲載されるのはカッコ悪いなどと思うプライドは捨てた方がいい。気分悪いものは見たくない。というのならソーシャルネットワークのような仲間内の閉鎖環境を作れるところで活動するのが無難。

ただ、トラバに関してはネットやプロバイダなどのメンテ事情というか技術的レベルで反映されない場合もあるんで、送った側もイチイチそのことで怒らない。というかよくあるよ。仲いい人のブログのでさえ反映されないで削除されたかな?などと思っちゃったこともあるが。ネットは存外不安定である。

・削除していいもの
  →単なる自動スクリプトなやつ。アダルトなのとかね。
  →マルチ
  →発言内容が社会的に問題があるもの。実名での誹謗中傷とか。殺人予告とか。プライバシー問題に関わるモノとか。
   
以前、3つめのモノを例外的に消したことがある。なによりもエントリ内容と関係なく行われていたりしたのでまぁナニしに来たんだ?って感じ。

・応答する場合
発言への応答はレベルが低いものは無視、放置するに限るか、鼻でもほじって眺めているだけでいい。しかし相手の罵倒にナニか実があると思うなら、反論なり書く時は余裕を持った気持ちでやんないとこじれる。真意が奈辺にあるか問うは有効。特に相手がなんでそんなこと言いに来たのか判らない時は、聞いた方が無難である。あんがいと自分が気付かなかったことを気付かされる場合も多く、話しているうちに己の蒙が啓かれることもある。Web2.0の時代はこの効用が大きいと思う。多様な環境の他者と話すことが可能なので、己の限界を知ると同時に、他者の価値を知ることで、世界を見る視点を複数持つことが出来るって按配。

ただの罵倒か、エントリ批判なのか冷静に考える必要はあるかもなのです。

2・論争になった場合の場について

よくこじれてるなぁと思うのが場を移してやったり、メールに持ち込んだりする愚。はてな界隈ではあまりいないが、ミクシ辺りだとよくある。

・メールに持ち込まない
こじれていない時点でも公開上ではじめたことは公開上で行う。これを徹底しておかないとこじれた時にトラブルになりがちである。ギャラリーを双方が意識して発言していく必要がある。わたしはこれを徹底していて、メールで私が他者のブログについてなにか言っていたなどということはあり得ないのでよろしく。以前くだらぬ論争に巻き込まれたことがあり、メールのやり取りすらしていなかったあるブロガーとメールのやり取りをしていたことになっていたという、嘘がまことしやかに語られていて、馬鹿じゃねーの?と思ったことがある。その頃から公開上のことは公開上でしか発言していないので、そういう嘘をついた人はなんでそんなことをしたのか未だ持って謎である。意図が判らなかったからであるが。とにかく喧嘩に他者を巻き込むのはやめて欲しいものだ。
そういうわけで、わたくしは公開上で発言されたものは公開上でしか応答しないことにしているんである。

私的な密接さが生じやすいのは気休めにはなるがその気安さが落とし穴になる場合もあるし、第三者のいないとこでメールの罵倒応酬ってのは冷静さを失いがちになるんで余計にやばい気がする。いつかは誰か第三者に承認してもらいたい欲望が出てしまうだろうことが予測され、公開の場で漏らしてしまい、その信頼を傷つけたことで更にこじれるとかね。ありそう。

・場を移さない
また場を移すことも出来るだけしない。移す場合はその旨をその場で言ってのち、移す。当事者すべてが見られない環境ではその話は行わない。個人的には単に陰口が嫌いだからなんだが、これもこじれの原因にもなる。一方的な意見だけ聞くのは公平さにかけるというか。あと二人が別の場所で論争始めるってのもギャラリーが共有していないのでナニがなんだか判らないんで、ギャラリーに説明義務が生じるんだが、時間を共有していなかったもんがそういうのをいきなり読んでも、モチベーションが湧かんよな。

3・論争になった時の意識

これについてはuumin3さんがいいエントリを書いていたのでそれを紹介

○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20080516
■ネットで不毛な諍いにならないためのたった一つの方法

「相手(発言者)の意図を(勝手に)想像しないこと」

よくやっちゃいます。これはかなり耳が痛いかも。

・言葉を憎んで人を憎まず
あと、あるネタで議論になってもそれ以外では引きずらない。相手に対して感情をリセットしなおすというのは必要かも。
人格を憎み出した時点で「貴方はネットのダークサイドに落ちている。」という感じかにょ?
まぁ嫌いな人がいるというのはしょうがないと思うが、ただ嫌いでむかつくヤツのところにわざわざ言ってなにかいうのはやめた方がいいというか、ほんとに嫌いなら近づかないし見ないもん。相手にしようとしている時点でその人になにごとかを認めさせたいというなにかが己の中にあり、それは実は相手をどこかで認めているという部分が自分の中にあることを気がついた方がいいというべきか。つまりそういう間柄はいったん話が通じると案外仲良くなることが予測される。
またネットでは実存が見えないだけに、相手に身近な誰かと重ねて見てしまう現象というのもある。相手はまったく違う人格なわけでそれやられると迷惑かもしれない。

まぁ色んなトラブル見てて観察した結果です。

以上は自分がこれから気をつけとこうと思う事例なんですが、完全に守っているかというとそうでもない時もあります。
ただ怒りに任せては絶対に書かないというコトだけは肝に命じとかないとあかんなと。常々思っています。