宗教者のプロトコル

昨日一昨日はネット安息日にした。一日一チベットリンクすらお休みした。島が夏だったからね。
一日一チベットリンク運動/Eyes on Tibet
先週はどうもあちらこちらで紛争っちゅうか、巡回ブログなどでも揉め事などがあって、うへぇ。巡回チベ関連ニュースでも似たよなレベルの揉め。うっひょぉ。木の芽時か?な暗黒面を色々見てしまった気分。外は初夏なのに。。。。というわけで週末ネト切りしたのもある。
まぁ、チベット関連ニュースの、ヘッドラインを追っていても、だからナニ?的な気持ちになるような記事が増えてきた現象は以前書いた通り。西欧メディアは五輪と中国に関して目の色が攻撃色に変容した王蟲状態。かたや中国も既になり振り構わず突進してあちこちに腐海の胞子を蒔き散らかして侵攻している状態。それをヲチするナショナルなネチズンも、中国を批判出来るならうひょひょひょひょ〜♪こいつはチャンス到来っすと、これまたいつもは批判する西欧メディアと同調して目の色変わった王蟲状態だし。中国の憤青君もまったく同様。Free Tibetと言えばFree OkinawaとかFree Corsicaとか言ってる始末。まぁなんつーか、人間の暗黒面というか、身体中の毛穴から硫黄臭蒔き散らかしてるようです。
で、ネットで、まぁこれも気に入らない相手に粘着し、もう、もとの議論はそっちのけで恨みと化してる状況を目撃してしまったが、なんつーか、こちらも既に王蟲の攻撃色と化して手が付けられない領域に入ってしまったようです。こちらも硫黄臭蒔き散らかしたようなコメントを大量に書いていて、こういうのはネットではまぁよくある光景なんですが、いやはや、あちこちで攻撃色化した王蟲の突進を目撃。大海嘯な状況で、世はなべてこともなしな気分にならないログを沢山読んでお腹いっぱい。ナウシカはどこよ?

で、まぁ以下のエントリ。

finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080419/1208562867
ダライラマと心の平和
 ダライラマが偉いなと思うことはいろいろあるのだが、彼は、今回の件で、泣きたくなるような気持ちもなるが、それでも瞑想して心の平穏を保つと言っていた。
 日本人のチベットシンパというかいろいろあるのだろうけど、はてな経由でYouTubeかなんかでちらみしたけど、今回の争乱の関係で坊さんが泣いていた。あれとダライラマはすごく違う。ダライラマはあの惨事を認識しつつ、心の平穏を保ち、「よく眠れる」とまでいう。
 彼の心のなかに仏教の平和というものがあるのだろうし、そのあたりにすごいものを感じる。

ええ。渦中の方のエントリなんですが(微苦笑)・・・それはともかく、紛争のさなかにあって冷静でいられることってのは結構難しい。
宗教者の本懐というのは、こういう時に発揮させられなくてはならないモノであって、それを体現してるダライラマって人はやはりすごいと。わたくし自身以前のエントリで、[これはすごい]な気持ちになったんですが。これね↓
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20080319/1205947998
中庸という精神を貫こうとするダライラマの平穏は、やはり宗教的達観にあるなぁと。しゅーきょーなことを書き連ねるわたくし的には反省しないとあかんななどと思うことあり。そのメンタルなものは『ダライラマ自伝』でも書かれていましたが、finalventさんの『極東ブログ』でもそれについて書いておられました。
極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/03/post_1538.html#comment-31048363
チベット的癒しの話

チベット仏教に見られる癒しというか、人が平穏な精神で生きていかれる為の智慧というかそういうのはどういう宗教にもあるもので、またそれが宗教の本来の神髄ではないかと思うことがあります。つまり王蟲の攻撃色にならんように生きるというか。だからオウム心理教のような-その発端はよく知らないのですが-人間以上のものになるとか他者よりも霊的ステージが高くなるとかそれ自体が目的といったようなものではなく、あくまでも社会の関係性の中でフィードバックされていくような、人の一生の中で平穏に生きていこうよ。的なものの大切さが。本来の宗教の目的だと思うわけです。そしてそれの達人としてのダライラマがそれについて述懐しているのが、上記のブログに引用されています。

ダライ・ラマ 強制収容所に長くいたチベット難民は、収容所の体験が貴重だったとよくいいます。そこは最高の精神修行の場だったと。チベット人の場合、トラウマがこころに深い傷を残すいうことは珍しいんじゃないかな。その道の専門家にインタビューしてもらえばおわかりになると思うが、チベット難民はほかの難民とは違うと思いますね。

あとこういう会話。

ジョン・カバト=ツィン 昨日猊下はそうおっしゃいましたね。仏教では悪を無知と考えるから、仏教徒は無知にたいして慈悲心をいだくと。たとえそれで自分が被害を被ったとしても。前に、チベット人医師のとても感動的な話を読んだことがあるんです。その医師は中国人の刑務所で何年も拷問を受けたのに、拷問した人間を一度も憎んだことがないといっていました。それどこか、そんな残酷なことができる拷問者の深い無知にたいして慈悲心をいだきつづけたと。この医師を取材したアメリカ人精神科医が驚いたのは、恐ろしい体験をしたのに、西洋精神医学でいういわゆるPTSDの症状がこの医師にまったくみられなかったことです。投獄経験のあるチベット僧の大多数は、この医師と同じなのでしょうか。
ダライ・ラマ なかなか難しい質問だな。亡命してきた僧侶のなかには、中国人を激しく憎んでいる人もいますからね。
ダニエル・ゴールマン ということは、拷問者に慈悲心をいだいていないと?
ダライ・ラマ そうかもしれない(笑)
ダニエル・ゴールマン 慈悲心をいだいてなかったとすれば、どうして後遺症がみられないんでしょうね。ほかにどんな原因が考えられますか。
ダライ・ラマ カルマを信じていることかな。現在の苦しみは過去に犯した過ちのせいだと信じていますから。チベット人はみなそう信じています。

こういう話は身近なネタというか、聖フランシスコの「完全なる歓び」と言うエピソードを思い出します。

http://www.ofmconv.or.jp/genten/04/page-04-011.html
第一編 アシジのフランチェスコの書きもの
ラウダ(賛歌)と祈り

真の完全な喜び

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 ‥‥ある日、ベアト・フランチェスコは、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会に兄弟レオを呼び、こう言いました: 「兄弟レオ、書きとめなさい」。
 レオは答えました:「はい、どうぞ、用意はできています」。
 「真の喜びとは何かを、書き留めなさい」、とフランチェスコはつづけます:「或る使者がやって来て、 パリの学者達が皆フランシスカンに入会したと告げたとします。
 書きなさい、それは真の喜びではありません。
 アルプスの向こうの国々のすべての高位聖職者、大司教、司教、いやそれだけではない、フランス国王とイギリス国王も入会したという知らせが 届くとします。
 書きなさい、それは真の喜びではありません。
 また、私の兄弟達が、異教徒達のところに行き、全員を回心させて信仰に入らせた、または、私が病人を癒したり、 たくさんの奇跡を行うほどの素晴らしい恵みを神から受けた、という別の知らせが届いたとします。
 でも、貴方に言っておきますが、ここにも、真の喜びはないのです」。
 「それでは 何が真の喜びなのですか」。
 「そうです。私が真夜中にペルージアからここに戻って来るとします。冬で道はぬかるみ、あまりの寒さに修道服の裾にはつららがつき、 それが私の足を突き続けて傷つけ、そこから血が出てきます。
 私は、泥にまみれ、凍えきって門に着き、玄関の扉を叩き続けると、やっと一人の兄弟が出て来て尋ねます。
 「お前さんは、誰だい?」。
 私は答えます:「兄弟フランチェスコです」。
 すると彼は、「とっとと消え失せろ。こんな時間に来たって、入れてやるものか」。
 それでも私が頼み続けると、こう答えます。
 「消え失せろ。お前さんは、単純で阿呆なんだから、こんな所に来ては駄目なんだ。俺達は大勢だし、ちゃんとした人達ばかりだから、 お前さんなんかは、いらないんだよ」。
 それでも私は扉の前に立って、こう言います:「神の愛の為に、今夜一晩だけでも泊めてください」。
 彼は答えます:「だめだめ。十字架を担う人々の所にでも行って、頼むがいい」。
 さて、もし私がこんなあしらいを耐え忍んで、動揺しなかったら、貴方に言って置きますが、ここにこそ、真の喜びがあり、 ここにこそ、真の徳、魂の救いがあるのです」。

昔の人の書き物なので冗長ですが、要するに、まぁ、聖職者として、あまねく教えが世界に伝わることも、修道会に皆が入ることも、奇跡を起こすことも、ぜーんぜん歓びじゃない。歓びとは、上記にある激しく辛い目に遇っても耐え忍び、動揺もせず、精神、霊的平穏を保てた時に歓びになると。まぁそういうことで、前提は違うのですが、上記のダライラマが語ることの宗教観と共通するものがあります。で、そのフランシスコが喜怒哀楽を表にしなかったかというと、この人はよく喜ぶし、怒るし、泣くし、楽しく過ごしたがるしで、まぁ「泣かない」ということはないのですが、その喜怒哀楽は神に向けられたレベルにおいてであり、人間対象としての霊的平穏においては、ダライラマに通じるような精神があったとは思います。聖人的なレベルですとやはりこういうメンタルには共通するものがある。
で、そういう訓戒を実践して生きている当の修道士はというと、うちの師匠なんかまさにフランシスカンなんですが、よく怒る。神のことではなく人のことで。自分にとって嬉しいことがあれば単純に喜ぶ。悲しそうにしていることがある。楽しく過ごすのは好きだ。まぁしごく人として単純明快なんですが、とにかく、人とぶつかることがあると怒ってるし、顔に「あいつ嫌い」などと書いていることはよくある。平穏さとはほど遠い状態なことはよくあるんですが、そういう「あいつ嫌い」を克服する必要はない。と申してました。嫌いなものは嫌いなんだからしょうがないじゃないか。と。慈悲心みたいなものも、つまりキリスト教で言うなれば「赦し」も言わぬのだが、それでもどこかで赦していると感じることがあります。それはそれ的な対応というか。やなことの落ちどころを内面に持っているような。
あまり外面的には聖人とはいえない、むしろ遠いんではないかとも思える時がよくある師匠ですが、人間というのをどこかで信じてるトコはあります。嫌いだと思っている相手に対しても、ある種の仏教的な言葉でいう「慈悲心」を感じることはよくあります。だから徹底して追いつめない。

つまり・・・・

ダライ・ラマ 仏の加護を求めることもそうかもしれない。これはどの宗教にもいえますけどね。輪廻転生という迷いや世界の無について、つねに考えることも役立つのかもしれない。あるいは正義はかならず勝つという強い信念も。

ここでいうなら正義を神と置き換えて、神を信じるがゆえに、人を信じようとする意志がある。これは洋の東西を問わず宗教的な達観を持った人に見えるメンタルかもしれません。

こうしたメンタルを持つと、目が攻撃色にならずに済むかもしれない。

天漢日乗
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/04/37_3238.html
■ラサ燃える(その37)いまチベットでどんな拷問や弾圧がなされているか

チベットの僧尼にとっては、チベット弾圧に対する抗議行動は、
 菩薩行
なのだ。そして、どんな苦難にあっても、堪え忍ぶことが出来る原動力は、ダライ・ラマ14世にある。
ナムドル・テンジン尼の証言。

 尋問に費やされる時間以外は、労働を強いられました。私に与えられた仕事は汚物を畑に肥料として散布することでした。日に三度、小さなパンとお茶しか与えられないわずかな食事のため常に空腹感は癒されず、殴られたせいで体中が痛みましたが、厳しい監視のため決して休息することは許されませんでした。両手に中国人の糞尿が入った重いバケツを提げ、監視人に追い立てられながら畑の間を行き来しても、決して悲しみに押し潰されたりはしませんでした。何故なら、心の中にはダライ・ラマ法王が居続けていてくれたからです。ダライ・ラマ法王が希望という光を与え続けてくれる限り、私はたとえどんなに状況がひどくても、心に喜びと優しさを保つことが出来たのです。一切の宗教活動は禁止されていたけれども、私はいつも胸の中で経文を唱え続け、ダライ・ラマ法王に祈り続けていました。

こうした迫害への諦念が却って敗北主義だとする批判もあるようです。しかしこれはあきらかに今そこにある苦難への応答であり、何故怒りを以て反撃しないのだと彼らに問うのは別な次元となる。そして宗教とは、そういうもので応答していく性質がある。

中国共産党のやり方は、そういう宗教メンタルはよしとしないだろうし、理解したいとも思わないだろうし、また裏に何かあるなどと思ったりもするかもしれない。俗な人間ならそう考えるのかもしれない。ゆえにダライラマのいう「対話」にも警戒してしまうのかもしれないが、なによりダライラマに代表される宗教者そのものを理解出来ないのだろうと思う。漢民族の歴史では宗教は政治結社的な存在でありすぎたものが多過ぎたせいもあるのだろうが。ゆえにダライラマが宗教者としては当たり前の言葉をはけばはくほどなんじゃかわけわかめにいらだたしく、却ってリベラルな西欧マスメディアとの方がわかりやすく対決出来てるんではあるまいか?

宗教は弾圧すれば弾圧するほど強くなるのは隠れキリシタンが潜航しながらも何百年も教えを捨ててこなかったのを見れば判る。ただ、慈悲心で以て対話へと向かえるかというと相手によっては結局無理なこともあるんで(例・韓国の太陽政策)難しいところではあるよね。しかし、ダライラマは宗教者なので、一貫していなければならないだろうし、これからも一貫してそうであり続けるであろう。それが彼をして彼と為すアイディンティティそのものであるわけなんで。
そういやナウシカも解脱した人だな。