本日はチベットの歴史を勉強する

中国様が何故チベットを手放したくないかの理由として、昨日はあちこちのブログなぞ覗いて、経済問題があるようだなとか勉強してみた。資源争奪戦は近代からの倣いである。
次はチベットはなんで中国にあるんだろうか?中国的にはチベットにラブラブな思いが他にあるのかのう的な疑問があったんで、歴史を学んでみることにしたが、これだけ古く国の歴史である。一日やそこらで分かるわけがなかった。

とりあえず、かつて西国の山中に吐蕃という國ありき。仏教を信奉し、印度、唐などと交易を結ぶ。
唐の時代のチベットすなわち吐蕃は広くラサから東は成都近く、北は涼州近くから敦煌近くまで。西は于蘭の近くまでと延びていて、唐から公主が嫁いできたりと、力のある国だったようである。
元の時代にハンの国の支配下にはいる。まぁ元という時代の元の最大版図は尋常じゃなく、西はポーランドビザンツまでアジア全土を全部治めんが勢いだったんで。この時代の元はチベットに対してはほとんど放置プレイというか、むしろ元のハン達は仏教信奉者だったので、チベット仏教の寺社関係に敬意を払うどころか、高僧達を積極的に援助、つまり師とあがめていた。そして政治的な統治はしておらず、つまり実質上元の支配下にあったともいえない、自立した関係を結んでいたようですよ。

明の時代、中国との関係は途切れる。仏教国ではない明にとってどうでもいい存在で、せいぜい削封国の一種くらい。モンゴルの数多ある教派の高僧が明に行って印字もらって帰ってきたとかそんな感じ。日本と明の関係のようなものだった。チベットではこの時代、チベット内部の宗派抗争に明け暮れておったようだが、いわゆる「転生」吐いう概念が生まれたのは1512年。日本の室町時代である。またポルトガルが東南アジアに出没しはじめる植民地時代の幕開け。
清の時代、これまた中原の民でない満州旗人は仏教徒だったもんでチベットの交流を積極的に行おうとする。清代1717年康煕帝の時代に、モンゴルがチベットに侵攻。それを受けてダライ・ラマ7世を擁する清がチベットに侵攻したモンゴル軍を追い出す。清朝の歴代皇帝はこれ以後チベット仏教の後援者となり、保護していったようである。どこぞの西洋の「言うこと聞かない教皇がいるから自分のところで擁立してしまえ。ついでに教皇庁も自分のところに移しちまえ」とかもなく、平和裏にいい関係があった模様である。
かように、中国というか、漢民族以外の中原の支配者はチベットと密に交流、ヨーロッパ諸国とローマ教会みたいな関係、漢民族の王朝はチベットに興味無し。放置。という状態だったようですよ。

これが変容していくのが近代。
イギリスがやって来てからである。印度をむりむりと支配しくさったイギリスがチベットに侵略してきたことが原因である。イギリス様は勝手に清とチベットについて条約を結んでしまう。小国の命運を大国が勝手に決めるというこの時代の典型的なアレである。その後、清はチベットに侵攻。ダライラマ13世はインドに亡命した。長い蜜月が終わる。清の滅亡によってチベットの盟主であるダライラマ13世とその仏教国家は主権を回復し、独立宣言を行う。
その後チベットは「中国」と長い抗争に明け暮れる羽目になる。


・・・・・・・・・今は、ここまで勉強した。