26殉教聖人の日

本日は日本のカトリック教会の暦では、長崎で死んだ殉教者の日だ。
まぁお子様のときから学校で殉教聖人話を聞かされてきたわけで、他の聖人よりも有名なイメージがあるが実は世界的には全然有名じゃないと思う。そして何故2月6日ではなく5日なんだ?とか思いますね。語呂合わせ的には6日の方がいいだろうに。

信仰の殉じて死ぬってのは美しいのか?ってぇと、まぁ聖人話を聞かされて育ってきたわたくし的には昔は素直に信念を曲げないって偉いなぁとか思っておりましたし、特攻隊の話などを聞いても、お国のために殉じるって聖人だよな〜。などと思ったりして、日本人の散華の美学にアプローチするこういう「殉教」ってのを崇高に思ったりしたものですが、ひねくれた大人になりますと、素直になれませんな。

長崎の隠れキリシタンたち、そしてその末裔はいわば信仰を貫いて死ぬことが出来なかった「転び」の末裔も多かろうに、そして転びて尚、子孫に信仰を守り伝え続けてきたその信念こそ聖人たらんと思うんで、最近は殉教者ネタを聞いてもへぇ〜ぐらいにしか思わなかったりする。

思えば、禁制となった背景には西欧の植民地主義があり、政治的な事柄ゆえであり、尚且つ切支丹大名藩下では逆に神道や仏教が弾圧していたというので自業自得だろ?的な話を某友人がしていたが、一向宗徒が殉教聖人だなどという話も仏教ギョーカイでは聞かない。なんでカトリック教会はこういう自分達こそ被害者ネタがすきなんだ?と友人が突っ込みいれていたが、まぁその通りですね。
正直、カトリック教会もかなり酷いことしてきたわけで、殉教者をたたえて被害者顔していたらギョーカイ外の人々に呆れられるのが落ちである。

今年は、新たな殉教者を列福するということで一部で盛り上がっているが、どうも乗れないのはその時代錯誤的蛸壺的発想かもです。どうやらギョーカイでも 関係者以外はあんまり盛り上がってないようなんですが「なんで今更、殉教者???」的な方も多いのかもしれない。(そういえば殉教するってのは自動的に聖人扱いではなかったっけ?わざわざ列福しなきゃならないってことは違ったのか・・・)

ただまぁ、こういう政治的な駆け引きの狭間で命落とすのは力なき無名の人々であり、その点では殉教者達は大変に気の毒ではある。