マザー・テレサの懊悩 十字架の聖ヨハネの『暗夜』

先日、我が家に神父が来た。
そこでマザーの話になった。
どーもこんなニュースが流れていたらしい↓

マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213
【8月27日 AFP】カトリック教会の「聖人」に限りなく近いとされるマザー・テレサ(Mother Teresa)がしたためた私的な手紙が、近日出版される書籍の文中で公表される。この中でマザー・テレサは、自身の信仰の危機、および神の存在への疑念に悩まされていたことが明らかになった。

 数ある手紙の中の一通は、1979年に親友のMichael Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には、「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない」と書かれている。

 66年の間に書かれた40通以上の手紙にはマザー・テレサが破棄するよう求めたものも含まれており、これらは来週発売される書籍「Mother Teresa: Come Be My Light」で公表される。一部抜粋は、すでに米タイム誌(Time Magazine)が掲載している。

 インドのコルカタ(Kolkata)で貧困層のために人生をささげたマザー・テレサは手紙の中で、自身を襲う「闇」や「孤独」、「苦しみ」について記し、神にあてたとされる日付のない手紙では、「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらない。神よ、このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」と問いかけている。

 「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされるが、公の場での表情に反し、新たに明らかになった手紙の内容からは、彼女が亡くなるまでの50年以上を、神の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。また、ある手紙には「ほほえみは仮面」と書いたこともあり、、さらに1959年に書いた手紙には、「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない」と記されている。(c)AFP

おお。これは「霊の暗夜」と呼ばれる状態ですな。
聖人にはこういう悩み多いんだけど、かの聖フランチェスコもこのような叫びにも等しいような祈りをしていたし、まぁ祈りの深い霊性に於いて、伝統的なお家芸ですね。
この記事では「神の存在を確信出来ないまま過ごしていた」と書いているけど、カトリック霊性の道行きを知るなら、その手の心理状況というのは短絡的に「信仰の危機」と直結はしない事ぐらい判る。いや信仰の揺らぎ、危機感を通じて神と出会うということは既にカルメル会の十字架の聖ヨハネなどが著作で記している。
彼によれば神という圧倒的な光へ向かおうとすると目がくらみ、闇の中へとほおり出されるかのごとくなる。という。おぼつかない闇の中を手探りで、進む。信仰の喪失、神の不在、という否定的な状況を体験することになる。祈りが深ければ深いほどそのような道をいく事になる。フランスの作家ユイスマンスが観想修道会で体験したそうした心理を克明に小説に記していた。更にいうなら、深い信仰者はむしろこの状態にある方が多いのではないか?神との「一瞬の出会い」の歓びは、つまり本当に一瞬であるが、それを得た歓びは大きいという。それは長い闇をくぐり抜けて体験出来るともいう。聖フランチェスコが何故あの岩山にの母って祈ったのか。己自身を虚しうして祈り続けたのも、マザーのこの感覚とシンクロするだろう。
マザーのこの証言はマザーテレサの祈りがどれほど深かったのであるかの証明となる。
そして己自身に大層厳しくあった人なのだなと改めて思う。
神父はこういうニュース記者があたかもマザーが本当に信仰を失ったかのように書くことに疑問を持っていた。マザーのこの感覚はカトリックとしてはわりと馴染のある感覚なんだが、こういう否定的なアプローチこそが逆説的に神に近づくということはやはり信仰者でないと判らぬ感覚かもしれない。