*[芸術]阿久悠の訃報、時代の死

このところ訃報をよく聞く。
しゃるろとっかさんの知人が亡くなられたと、彼女から祈りの依頼があった。
知人の死は己の中のその人が死ぬことでもありそれは辛い。身近であればあるほど、接する密度が濃ければ濃いほど、自分自身の中で占めるその人の割合は大きく、その時間が死と共に結晶化する。誰かと死に分かれるという心の痛みはそのような結晶がもたらすものだったりするのだろう。

或いは知人ではないが著名人の死。最近では小田実が亡くなった。
意図的に避けてきた所為もあるのだが、クロスオーバーすることが無かった小田実は、彼が生きた時代の象徴的な存在の一つでも有り、一つの記号化したものでもあり、その灯が消えるというのは、なにかあの時代がすでに「歴史」へと移行しつつある、それもまた時の結晶化作用というべきか。好きになれなかったあの時代。しかしその結晶である小田の死はやはりどこか寂しく感じられた。

昨日、作詞家の阿久悠さんが亡くなられたという。
finalventさんところで知った。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070802/1186010928

阿久さんは語るまでもなく有名な人で、芸能関係にまったく疎く、テレビも見ない私でも彼の歌はよく知っている。あの時代のそれこそ本当の意味での大衆の文化の中を生き抜いた人だった。大衆の心を拾う、そんな表現者であったと思う。

以前「婦人公論」の仕事で連載を共にした事がある。
彼が作詞した歌謡曲、既にどれも殿堂入りしたような人口に膾炙した「詩」をもとに阿久が短編を書き、私が絵を描くというコラボレーション。素材は「時の過ぎゆくままに」「舟歌」「また遭う日まで」「青春時代」「北の宿から」などなど歌詞読まなくても唄えそうな歌ばかり。 阿久が書く短編小説は己がかつて書いた詩から離れ、違う物語を紡いでいながらも、しかし根底に流れるは彼独特の世界観だった。難しい言葉でもなく難しい表現でもなく、しかしその言葉は鮮やかに生きて自立している、そういう言葉を紡ぐ人だった。

中央公論の方が席を設けて飲む機会を作って下さったのだが、鼻たらしの頃から知っている歌を造り続けたおじさん、さぞかしもうじじいかと思ったら、生阿久さんは思った以上に若くて、そしてほんとに若かった。心がいつまでも衰えない、そういう若さを持った方だった。
「僕はね、君が絵をあげてくる度に、一喜一憂するんだ。」
「勝った!とか負けた・・・とか、そんなふうに」
「どんな絵をあげてくるのか?僕の書いたものは、君の絵に勝ったか負けたかいつも考えてるんだ」
「それが楽しいんだよね」
阿久さんの足元にも及ばぬ下流な絵描きに、過分な言葉をいただいた。
しかし阿久さんはマジにそうやって愉しんでおられたようだ。
なんという、繊細で、そして自然にあらゆることを愉しむ人なのだろう。
詩人であり小説家である阿久とは、こんな風な軽やかな、重力に縛られぬ感性を持った人種なんだと、感心したことがある。

阿久さんの死もまた一時代の死である。
その歌詞の意味すらなにも考えずに「歌謡曲」を歌っていたあののほほんとした昭和30年代、昭和40年代の、時代の点景の中に彼は確実に存在した。その後も彼は時代時代の歌を書き続けた。驚くべき感性。そして阿久は歌い継がれるものとしての結晶を私たちに残した。

こうやって歳を重ねるごとに、幾つもの死と出会う。自分を形成していったなにごとかが一つ一つその時間を止め、結晶化して、やがて自身もそこへと向かいつつあるのだろうが。

阿久さんの御冥福を祈ります。

詩小説 (中公文庫)

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