復活徹夜祭

家におるけどな。

もう忘れてしもうた。ってなぐらい懐かしいが。徹夜祭である。
昨年は隣の島まで祖母連れていったが、あの頃は車椅子で行けたからなぁ。いまは寝たきり。流石に負担になるので無理。フィリピン人のお母さん達の造った御飯が旨かったよ。
島の徹夜祭は素朴だった。雨風がすごくて昨年は火の祝別の式は簡略状態。島の雨はすごいうえに、聖堂が小さいので、色々制約もあるから。東京の教会の復活徹夜祭は盛大で、そちらはもう何年も久しくなってしまったけど。


で、聖なる三日間の総仕上げとしての復活徹夜祭。昔は夜中にはじまり徹夜で延々やっていたんだが。日没から次の日になるというユダヤの考え方を採択して、今は7時頃にやっていたりしますね。つまり、いま現在、皆さんミサにいってるという按配。
私は寂しくお魚でも食べますでふ。
島母んとこに昼に遊びにいったら、刺し身を恵んでくれたのじゃぁ。それがご復活のお祝い。
私は肉より魚(や鳥肉)の方が好きなんで、牛肉を食う方が実は小斎になるかも。

とにもかくにも、命は再び蘇り、春爛漫の季節の予感。
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で、徹夜祭に一人で家っつーのも、けじめもなくて、祭に乗りそびれもなんなんで、タマには真面目になってみるかと、鹿児島教区の司教様のブログに行って説教聞いてただよ。いい時代だねぇ。ネットのある時代っつーのは。


ほっときゃほとんど説教なんぞきく機会もなくなると、その日の朗読個所について自己流で納得してしまう。自己流解釈とはえてして自分の都合よく解釈する危険もあるんで、誤読してる場合なんかもある。プロテスタントの人なんか「カトリックは聖書を自分で読んじゃいけないんだって」と昔々は批判していたが、彼等も礼拝の時は牧師の説教に耳を傾け、自己流解釈に陥らない努力してはるので同じではないか?などとも思う。熱心な信者さんは註解書などを手引きにしている。カトリックもそういうのと実は同じではあると思う。指導のもとに読むのと自分で読むでは広がりが違う。

で、まぁ受難の聖金曜日の説教などを聞いていた。

イザヤの預言に見られる「主のしもべ」が体験した絶望的な状況。神の不在的光景という贖いの光景。イエスの絶望的な受難の光景と重なるこの個所の解説を聞きながら島尾敏雄の『死の棘』を思い出していた。復活の聖なる週、読み続けていた本だ。いずれ読み終えた時に書評を書くつもりだが、永遠に続くかと思われる夫婦の修羅の光景はおそろしく哀しい。

司教は日常の我々にある苦しみに引きつけて解説していく。日常の延長線から理解されていく福音の個所。なんだか最近そういうオーソドックスな感覚を忘れていたなぁと妙に感じ入った。信仰とは大上段に構えるものでもなく日常を生きることだと。まぁ思った次第。

そんなことを考えていたら、友人から復活おめ電話。辺境にいる私を忘れずにいてくれるとはありがたい。

ご復活おめでとうございます。