ディスカバーされる自分

uumin3さんのエントリに触発され。
●ディスカバーされる風景、或いは「自分」

○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20070404#p1
■美しい日本と私
唐突になぜこれを思い出したかと言いますと、b_say_soさん@Say::So?の■[社会]「本当の自分」も「好きなこと」も胡散臭いという記事で本当の自分ってすごく胡散臭いということが書かれていて、私はかねがね比較的新しい「本当の自分」探し*1ブームが始まったのはこの「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが一つのきっかけじゃなかったかと思っていたからです。

イタリアに留学している若い人に出会って話をする機会があった。イタリアにナニをしに来たのか、目的が漠然としていて、「イタリアに行けばなにかを見つけられるんじゃあるまいか?」と考えている。げんにそういう若い人の相談に乗ったこともある。「向うへ行って何がしたいの?」と聞いても答えがなかった。結局、向こうで旦那を見つけて結婚したので、まぁ結果としては幸せになったのでよかった。退屈かもしれない日常を生きる楽しさを見つけることも大切だとは思う。

彼等はとにかく先ず語学留学なんぞでやってくる。イタリアの美術をはじめとする文化的な考察を深めたいと語学留学した友人が留学先の学校で周りの多くの日本人の若者がイタリア人講師に日本のことを訊ねられて答えられないのに驚いていた。「『源氏物語』についてなにも語れないってどうよ?」別に文系でもない美大での人間でも語れることが語れない。彼等にとって日本はディスカバーされていなく、イタリアをディスカバーにしに来たはいいが、畢竟、話を聞くと「自分がナニがしたいか、ここなら見つけられると思って」
・・・何処にいても他力本願じゃ無理じゃね?と思ったが。彼等の世代はそういう教育を受けてきたんだな。とuumin3さんのエントリと引用されたb_say_soさんのエントリを読んで改めて思い出した。

uumin3さんはディスカバージャパンという懐かしい広告を紹介している。わたくしは子供のころ京都にいたことがあったので京都は日常的存在だったが、当時、京都はまだディスカバーされていなかった。国鉄(今のJR)の広告でディスカバーされた京都は自分の知らない京都だった。なんせガキの足で歩ける範囲の京都しか知らない。母の実家のある上京区平安女学院〜聖アグネス教会〜御所という辺りと、親戚の家のある白川あたり〜琵琶湖疎水や哲学の道銀閣寺といった辺り、或いは家の墓所のある等持院の周辺といったくらいで、あとは連れていかれた東寺の朝市や金閣寺大徳寺の茶室ぐらいが記憶にあるだけ。清水寺すら行ったことがない。美しい日本である京都は原風景であるが広告で更に磨かれたようなライトアップされたものではなく、もっと日常だった気がする。でもその日常的な原風景的ななにかを確かめたいと、日本をディスカバーしたいという気持は分らなくもないが。しかし広告のように綺麗に飾られパッケージされてしまうとそれはもう「日本」のディスカバーではなくなると思う。

uumin3さんはこれらの広告が団塊の世代の意識の推移として分析する。

そろそろ政治活動・社会活動へ向けられていたエネルギーが内向し、「ミーイズム」が始まっていく頃でもあります。彼らは本当に「人間性を取り戻したい」なんて考え、そのために「旅」に出たのです*2。非常にうまく時代にはまったものです。さらに彼らにとって近代化した(してゆく)日本はむしろ当たり前のもので、ちょうど昔の日本の風景が「新鮮」なものとして目に映ったであろうことは容易に想像されます。

まぁ、はじめに揚げたイタリアの留学生なんかその典型だが、丁度団塊の世代の子供たちではあるな。彼等にとって日本はもう消費社会のなかにあり、バブル期に子供時代を過ごし、原風景の「日本」どうであるのか、都会と田舎とでは差違があるとは思うものの、親達の世代のような「日本」も既になく、かといってまだ日本が誇るオタク文化が今ほど認知されていない時代でもあり、足場である文化そのものが曖昧な中で「自分探し」をしていたともいえます。永遠に旅をし続けても、内向していては見つからない。足場である外的なものを確認していないとダメなのかもしれない。

しかし、前にも書いたが、本来、自分とは退屈な日常である。とは思う。京都も、今いる島も日常になることが楽しかったりする。たびんちゅではない。地に根差していく自分というのはその退屈さによって生じる。たびんちゅであることは軽く、自由ではあるが。しかし根っこが欲しくなるのもこれまた人間本性であり、回帰するなら、やはり「退屈な日常」を発見する必要もあるんじゃあるまいか?仕事とか、家のこととか、家族とか、毎日毎日代わらずある存在を愛おしく思えるのも、いいんじゃないかと最近考えている。

●「好きなことをする」ということ

木走さんが最近こんなエントリを書いていた。
○木走日記
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20070330/1175243013
■[コラム]人間はどのような精神状態のときもっとも脳が活性化するのか

仕事効率を上げるにはどうしたらいいのか?という話。いやいや仕事するよりは目の前の仕事を好きになるのが先ず大切。ということで、確かに 「仕事であれ勉強であれこれは言えることでありますが、対象物を好きになると言うことはその人の脳を活性化させ生産性を高める最大の効果があります。」ということはある。好きな学科と嫌いな学科じゃ、十段階で10と2というものすごく明暗の分かれるような通信簿を貰っていた私としては実感である・

最後に多少ネタ的に

そこで私は私の従業員にはこう指導しています。

 「自分の仕事を好きになりなさい」

 「自分のお客様を好きになりなさい」

 「自分の会社を好きになりなさい」

 「特に社長を好きになりなさい」

 最後の指令以外はけっこううまくいっているようです。

・・・と木走社長は締めくくる。

コメント欄にも書いたが、好きなはずの絵を描く仕事をしている私としては、自分の仕事が好きなはずであるのだが、これが厄介で、締切という重圧、ルーチン化していく日常のなかで、仕事に対するわくわく感がいつの間にか消失していると思う時がよくある。好きだったはずの絵を描くという行為が苦痛意外の何者でもなくなる時がある。いい仕事をするには木走兄のいう通り、目の前の仕事に対する「好き」というか「情熱」を取り戻さなきゃならないはずなのだが、なんせ自分の好きなことを仕事にしてしまったがために、逃げ場がなくなり、日常がどよ〜んとしてしまう。息抜きに本を読んでも画像が浮かび、息抜きに散歩をしても「これって絵としてどうよ?」的に風景を見る癖の付いたわたくし的には。なにを見ても、なにを読んでも、寝ても覚めても、「絵画表現」に結びつく思考をしてきたわたくし的には、結局仕事が重圧になり、まぁ世間でいうところの「スランプ」になる。
好きなネタが仕事で来る場合もある。好きな作家、以前から読んでいて気に入っている作家の仕事が来た時は嬉しくて舞いあがり、気合い入り過ぎて滑ることが多々ある。仕事というものへの「好き」にも程度がある。舞いあがるような好きではいけない。客観性が必要だ。或る種の醒めた感覚がないとダメなのかもしれない。

とにかく仕事が日常化している。日常化することの価値を発見しないと、ダメダメであることを最近実感しているので、なんとなく、「退屈な日常の再発見」なんてことをほざいているのかもしれないが。

で、再びuumin3さんのエントリに戻る。

さて、b_say_soさんがこの「本当の自分」とか「好きなことをしろ」とかいう(人々の)背景にある種のエゴイズムを嗅ぎ取ったのは理解できる気がします。この言葉は(少なくともブームとしての自分探しは)確かに「人間性」とか「内面」とかの美称のもとに、個人的な関心の追求をうしろめたく思わないための免罪符として働いていたかと思われるからです。

 でも反面このブームに乗った彼らのミーイズム=自分主義が、「豊かな人間性」といった方面への関心も失ってしまわなかったのも事実ですし、そこらへんに団塊の世代とその直後の世代あたりのアンビバレントな性格が現れているように思うんです。(ただ、拝金主義や集団主義に批判的だったわりには商業主義に乗せられてしまっていた(かも)…というのがかわいそうかなと)

本人は「好きなことをしたい」でも構わないだろう。だが周りは、特に近い関係にあるのならば「すべきことをしろ」というべきなのではないか。そうやって常に自分の「したいこと」の吟味をするよう促さなければならないのではないか。

■「本当の自分」も「好きなこと」も胡散臭い
http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070403/1175568948

とおっしゃるのはまさにその通りだと感じますね。私も学生時代から周囲のうさんくさい「自分探し」に皮肉を言うほうではありました。

b_say_soさんは塾ぎょーかいにおられるそうで、「好きなことをしろ」という言葉をそのぎょーかいではよく聞くらしい。で、そうではなく「すべきことをしろ」というべきだという。これは親達が「好きなことをしろ」ということを免罪符にしているからだと指摘する。

この言葉はたいてい言い訳の文脈で使われることが多くありました。特に「好きなことをしろ」というのは舌触りだけはよいので、親が子どもに対する責任を放棄するときに用いられることが多くあります。「好きなことをしてくれればいい」「うちの子はまだ本当に好きなことが見つかってないから」とかいうときはたいてい「だから仕方ない」「今できないのは仕方ない」「今やる気がないのは仕方ない」とつながります。
(Say::So?)

実は我が家も、「好きなことを探せ」と言われたものでした。親は子供の好きなことを見つける為に異常な努力を払っていた。生物に興味があるからと、牧野富太郎全集を買い、音楽を習わせ、絵が好きなら絵画教室に行かせ、科学が好きそうなので実験道具をそろえ、その方面の探求を深める環境を整えた。特に習い事に関しては、いいかげん嫌気がさすと「貴方が好きで行きたいと言ったのだから、最後までやり通しなさい」などと怒られたものだった。「好き」にはそういう責任が生じることを叩き込まれた。実は「好き」という行為に逃げ場などないことを思い知らされた。大学受験の時、消去法でそれしかなかったとはいえ、好きな絵を描ける美大を目指した。現役の時はあまり受験の実感も、危機感もなく、だらだらとしていたので四大に落ち、合格した短大に行こうとしたら兄貴に「お前はそれでいいのか?」と冷たく言われた。「目指すなら先ず最高を目指す努力をしろ。勿論、トライしてダメならばそれでもいいが、努力も無しに諦めるのはよくない。」ということだった。結局浪人し。しかも「浪人するなら、国立しかダメ」「滑り止めなし」というトンでもな条件下でなんとか合格した。よく考えたら親も兄弟も厳しい家だったな。

妹は兄や私と違って「好き」をなかなか見つけられなかった。「兄や姉には好きな特技があるのに、何故自分にはないんだろう?」それで悩み続けた。受験の時はノイローゼになりそうだった。見ていて痛々しかった。妹は未だに「自分が本当になにが好きなのか判らない」という。「人と会って話をするのは好き」『人の話を聞くのは好き」という。そういう「好き」の要素を仕事に活かしてはいるが、それでも未だに悩んでいる。私から見ると立派に仕事をしているとは思うが、それでも「好きなことをしろ」がトラウマになる場合もある。

「好きなこと」を見つけたなら「すべきことをしろ」でもあり「好きなこと」がなくとも「すべきこと」をしなくてはならない。その「すべきこと」はどちらにせよ努力を要する。

でもでもこの言葉、実際には(傍で見ていても)どこか魅力的にも感じてたのです。結局「世の中」に不満な人間は外(社会)を変えるか内(自分)を変えるかしない限り不満の中に生きなければならないものだからです。内面を変えたいと思う時に「自分を探せば?」という言葉、そして「それが見つかるよ」という甘言はいかに優しく聞えるか…

 その後の私は探して見つかる自分というものはないという考えに至っているのですが、自分を探す人たちを(それがあからさまにミーイズムに偏らない限り)無下に責めることもできないなあと思ってもいるのです。
(uumin3の日記)

「自分探し」というのは確かに「なにそれ?」的なものではあるが、「退屈な日常」「すべきこと」の再発見もまた自分探しの一つだと思うと、確かに「自分探し」というものは否定するものでもないなとは思いますね。