家族の肖像

しっかし、まぁ教会内であっちが異端だ、こっちが変だとかやってる蛸壺現象は疲れるな。色んな言い分があって、その立場からするならそうだよなぁと思わなくもないが。
自分的にはその手の議論にはすぐ飽きてしまうし、そもそも綿密にやるだけの神学的知識もないし、その手の政治的なことは司教さんとかバチカンのお仕事だと思うので基本的に傍観。

それよりも、今気になるのは、eireneさんが紹介してた「ネットカフェ難民」か。

eirene
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070303/p2
■[思想]『ネットカフェ難民』の感想

うーん、他人事ではない。貯金が溜まらず、文庫本すら買えない日々をタマに体験している潜在的失業者なわたくし的には、家族がいなくなったらどうなるよ。
『関係の貧困』はかなりの数いると思う。
内田樹氏が『下流志向』で描いていたと記憶するけど、今の核家族化は、他者的存在が内部に入るのを嫌う。相互扶助がなくなりつつある。正直、余裕のある身でないので、えらそうな事のいえない立場なんだが、もし金があったら、身寄りのない子でも引き取って育てて共同体に協力したいとか思うけど。でも、日本の法律では独身だと駄目らしいね。
あるいは食客が何故か家にいるとか。書生とか。そういえば奉公って昔はありましたね。そういう他者が家にいるというのは父の子供の頃の世代では当たり前だったようで住み込みの女中さんがいたりしたらしいです。

核家族というのは近代の産物だそうで欧州の近代化が進むと共に登場したらしい。聖家族の像もそれに伴って増えたとは岡田温司の受け売り。

実はまだ読んでいないんで、読まないと。

その核家族が更に解体し、個人の時代になりつつある。そしておおきな経済活動の中で金というものに振り回されて生きるしかない個人がいる。
『知と愛』のゴルトムント君のごとき放浪生活は今は不可能。
◆◆
家族が解体して個へ向かっていることと、典礼問題でセクトが出来ていくような現象も根が同じ気がする。他者と共存するにはどこかで寛容さがないと駄目だとは思う。それって「鈍感力」?こないだ本屋に並んでたけど、あいや渡辺淳一かぁ。確かに彼の文章を読むには鈍感力が必要だ。