信仰と理性

一輝師匠のところでこのところカトリックの教義について、ピオ10世会の問題を通じて様々に論じられている。
金田一輝のWaby-Saby
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/
師匠はネット上で散見できるピオ10世会への評判、或いは批判は妥当か?否か?という問題から発展し、かの会に対する肯定的な立場からの記述について、これまたそれには整合性があるか?否か?というネット上のテキストの検証を延々行っている。
これらは元テキストの記述が論理的に正しいか?の検証であり、学級的な手続きで行っているもので読んでいて面白い。対象となった方はその手の論理学的な方法論に慣れていない為、困惑していて気の毒なのだが、第三者的にはあるテキストを元に批判的に読むという手法を知れて面白い。わたくしは論理的な人間でないので、なかなかこういう緻密なテキスト上の検証手続きをすることは出来ない。やはり師匠は師匠だのうと感心してしまう。

http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20070304/p1#c
■[キリスト教]文献主義?
上記のエントリで、一輝師匠が「文献主義」と評されていたのには苦笑してしまったが、そもそもが文書の問題を扱っているわけで、信仰という問題ははじめから取り沙汰されているわけではない。だから師匠を批判している護教の盾さんの以下のエントリは微妙にずれてしまっている。
○護教の盾
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/diary2007/d-2007-03-03.html
■いわば「文献主義」の金田さんへ

ただ、護教の盾さんが思わず主張したくなるのもわかる気はする。信仰というのはたしかにまぁ「そういう問題じゃないでしょ!」という次元ではあるし、ややこしい教議論などを脇で聞いているうちにイライラして「んなことどーでもいいだろ」とか言いたくなるのはわたくしにもよくある。

とはいえ金田氏はあくまでもテキスト上の記述の整合性、つまり理性的なものによって認識される要素を問題としている。教義とは「信仰と理性」という問題のうちの理性によって構築させられていく部分である。それゆえに徹底した論考、考察ということがそれらの世界では誠意となる。因みに本日付のエントリではピオ10世会の小野田神父が金田氏に反論をしてきたことが報告されているが、小野田師の応答はまさしく論に対する誠意ある姿勢だ。

ところで、教義というものはロゴス(・・というよりは書かれた言葉と言ったほうがよいか)化されていくものである。本来、神の神秘とは人間の認識を凌駕しているものであるし、だから教義とは啓示される側の人間の感覚によって直感的に触れることが可能なモノの、更にごく一部の部分に過ぎないとは思う。それら直感的に得たことを長い時間をかけて整合性をもたせて共通認識として理解しようとしたものが教義であろう。

例えばカトリックにはローマ・カトリックが伝統的に伝えてきた教義があるが、我々は教義を信じるわけではない。教義は世界認識のガイドラインではあるが、そのガイドラインがなくとも神を信じることは可能だ。というより、先ず神を信じる。という直感めいたものがあり、その直感によって認識される不可知的な存在のそれはナニか?と考えはじめたときに辿る道標的なものではある。その道標は各教団の数だけ幾つも存在している。といっても概ねキリスト教の各教派はほとんど重なる部分も多いけれど、微妙に差異がある。

とにかくローマ・カトリックにはローマ・カトリック教会が伝えてきた伝承による固有の教義が存在している。

私はかなり直感的な人間で、なおかつかなりいいかげんなので、教義をすべて守らねばならない。有無を言わさず肯定しなければならないなどとは思ってはいない。それが全て正しいなどと思っていない。未だ信条における「体の復活」も「永遠の命」も「判らない」としか言えないし、ましてや様々な倫理における問題、不可謬だと宣言されている幾つかの固有の教義にすら一定の距離をどこかでおいている。時に疑いすら抱くこともあるこれらの教義に対し、己の中に否定する材料もないが肯定する材料もない。

漠としたナニかがある時、それらの教義が示されているが故にそこを軸に考えることが可能である。それゆえに「ガイドライン」と記した。ナニかを把握するにしても考える材料がなければ何を考えればいいのかすら判らない。

私は教義に対し「間違っている」とは言えないが「正しい」とも言えない。おそらく生涯かけてそれが何か?を考え続ける、或いは誰かに問い続けるだけで終わるかもしれない。それも強烈に興味なければ、結局判らないままに放棄しておくだけだと思う。

信仰の営みはそういう次元とは異なる思考運動であるが、これはかなり個人的なことになってしまう。だからテキスト化して語るのは難しいし、他者と共有するのも難しい。しかしともするとそれだけでは主観過ぎてしまう。だから「教会」という神の民の共同体という装置が作り上げた「教義」は必要になるのだろう。

これら信仰の共同体である「教会」は外部的な社会共同体に繋がるものでもあり、それ自体社会性を帯びている。そもそも個のみで成り立ちうる主観世界だけでは生きられない社会組織を営む性質を持つのが人間であり、人間は生れ落ちた瞬間から社会とのつながりを学んでいく。それらは人間本性固有にある「理性」によって認識されるわけだが。

もともとは信仰はそんな理性で認識したわけでなく、なんとなく外部的な神という存在を私は持っているなぁとか、そんなレベル。シンコー的にはそれでも充分なんだが、異なる信仰の他者と話すときどうしても客観的に言語化せざるを得なく、そういう時に「教義」というものがはじめて立ち現れてくる。だから周りが同じような信仰者だったらそんなこと意識すらしなかったかもしれない。教義を全然理解していない幼児洗礼者ってのは多いと聞くが、そのほうが幸せかもしれないなぁとは時々思う。なんか「葬式仏教」という言葉があるケド、そういうのがいいなとか。慣習化していく信仰というのにどこか憧れめいたものを感じることがあるのはこの国においてマイノリティゆえか。