『知と愛』自分探し男一代記

友人に書評ブログと言われておるが、療養中でお外もロクにいけないわたくし的には、本読むのと仕事(絵)以外やることない。

本日読み終えたのは、「教養小説」の分野に入るのか?な『知と愛』

知と愛 (新潮文庫)

知と愛 (新潮文庫)

以前、finalventさんがヘッセ読むなら先ずこれ読め。と紹介していたので気になっていたものの、藝術対宗教ってなのがどーにも自分的にミニマムな世界過ぎて疲れそうだな。とやめたんだけど、『魔の山』以上に疲れる本は滅多にない(ドストエフスキーか、ロマン・ロランか、プルーストなら疲れそうだけど)ので、薄いしすぐ読めそうだし・・ってんで買ってきて読んだ。

うーん。ぬぁんだ??この主人公は???
ただの自分探し野郎じゃねーか。しかも闘うコックさんのサンジ並みに女好きで、友達ほとんどいないし、だらだらと放浪している按配はインドの安宿あたりに溜まっていそうなヤツで、仕事しても気が向かないとやらないって・・・・ショーもないことこのうえない。これドイツの若いのが沢山読んだってことは一世紀前から自分探し君は奨励されていたのか?

一応主人公ゴルトムント君は彫刻家。美術の中でも技術的に熟練していないとなかなか難しいのが彫刻家なんじゃがな。見習い期間がほかより長くなりそうな分野。しかしこやつはベンベヌート・チェリーニ並みに放蕩し、ミケランジェロ並みに気が向かないと全然集中できない。出来上がらない。という天才的な才能を持つやつという設定。無理あり杉。で、この芸術の資質をいち早く見抜いたのが修道院時代の彼の師で尚且つ友人でもあるナルキス君である。

ゴルトムント君は幼い頃に修道士になるべく修道院にぶち込まれるのだが、父から期待された像(僧侶)を目指し、モデル院長、モデルナルキスを手本に少年は精進するも、知性に優れてはいるが信仰的にどうよ?な神学者ナルキスにムラっ気を看破され、「お前。正直、坊主に向いてないから」と指摘を受け、知恵熱を出してしまう。で、女と出来ちゃったのをきっかけに修道院を飛び出すという無法ぶり。

しばらくバックパッカー(或いはホームレス)となってあちこち放浪するが、非モテな人が悔しがるくらい女にモテるので、女のお情けでなんとか食いつないでいる。

ある日、タマタマはいった聖堂でスんばらしいマリア像を見て感銘を受け、その作者に会いに行き、いきなり「弟子にしてくれ」と頼み込むも、筋がいいが職人肌ではなさそうなゴルトムント君を親方は、微妙に信頼できず、半分弟子の形で雇いいれる・・・という按配。そして一作品をモノにするも燃え尽き症候群となり、虚脱状態に陥り、親方を失望させ、またも放浪の旅に出てしまう。ついに女で失敗し、あわやというところでナルキスに邂逅し、たすけられるという成り行き。

とにかく読んでいて、その腰の落ち着かないモラトリアム根性にいらいらしてドつきまわしたくなるゴルトムント君である。

ヘッセはしょうもない男一代記を書くつもりはないのだろうから一応、「この小説のどこが優れているか」を書くとするなら・・・・・・・まぁ、若いときに読むと感動するかもよ。こういう青臭い悩みってあるよね。ぐらいかな。
つまり、どうにも純な気持ちを失ってしまったおばさん的には「こんな息子がいたらやだ」な視点になりがちなんだが、まだ当事者たりえる年齢なら、おそらくこの美しい表現に満ちた物語に我がことのように感じ入っただろうとは思う。

あらゆることにしり込みもせず体を張って様々なことを体験していこうとするゴルトムンドと、修道士マウロ*1か尊者ベーダ*2並みに修道院の蛸壺で日夜神学に励むナルキスとの対比がいいのかもしれないが、ナルキスの辿った過程が書かれていないので物足りないです。
お互いが相手にはあって自分には欠けているものがあるが故に魅かれている二人であるが、この対立構造は、実は己が自身の中に存在するものだと言えるかもしれない。少なくとも学究しようとするもの、もしくは創造しようとするもの、ナニかを真剣に為そうとする過程で、自分自身の中に存在する二つの矛盾する意識としてあるかもしれない。
「知」と「愛」という言語対比は訳者の創造だそうで、それが適切といえるかはどうも判らぬが、享楽と抑圧、パッションと客観性、啓示と理性、具象と観念、これらはあるいは人としてのイエスと神としてのイエスという概念を持つキリスト教的対比かもしれないが。
とにかく、他方だけでは成り立ちえず、何かが欠けている。それは完全たりえない。ゆえにゴルトムントとナルキスはやはり最後には出会わねばならない。

*1:修道士マウロ:修道院から一歩も出ないで世界中の地図を描いた修道士。但し小説の中の人

*2:尊者ベーダ:イギリスのどっかの修道士で一歩も修道院から出てないのにヨーロッパにその知性が轟いていた人