というか「ドイツ教養小説」とやらに挑戦してみんとす

教養小説」(修養文学というか)とやらに教養がないことに気づいたのでなんか読んでみようと思って犬散歩がてら本屋にいった。ディケンズも夏目も下村も読んでいるんで(けど、ほとんど忘れてるけどね)それ以外の・・と探したらヘッセのもロマン・ロランもトーマスマンもゲーテジョイスもあった。偉いなぁ。田舎本屋で頑張っているなぁ。カボス。
で、とりあえずやはり「ドイツ教養小説」がいいだろうしhanneさんもお勧めだしで『知と愛』に目をつける。
実はいつも読みに行くfinalventさんブログでも偶然か『知と愛』を取り上げておられて「先ず読め!」と、書いておられた。
finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070218/1171756965
■ヘッセは「知と愛」をまず読んでそれから関心があれば他も読めばいいのですよ

ふーむ。このブログ界でも類を見ない、不明なぐらい広範な知識というか、関心対象が広すぎて収拾がついていないのではないか?と思うようなジャンル問わずの異常な読書量を誇るfinalventさんが言うんだからそうかもしれない。

というわけで、本屋さんで手にとって見た。ど〜やらこの小説は父親の言うなりで修道院修道院というよりは神学校だよね)に入った少年の成長小説というか、ドイツ版「赤と黒」というか、僧(知)の生活から飛び出し、愛(芸術)の世界へと身を投じていく主人公の遍歴物語なようだ。なんか本表紙のとこにある紹介文から受けるそんな感じに微妙にドン引きしてしまった。
どーにも宗教(もしくは学級的な視点)と芸術(もしくは熱狂)という対比世界は今現在のわたくしにはリアルすぎて読み始めたら突っ込みいれまくるか、疲れそうなんで。体力があまりない今読んでも疲れそうだなと、紹介文、読んですでに疲労してしまった。(疲労という言葉を重ねて連発するくらいマジに疲れたのよ)

かくして、その並びにどかんと凛々しくあった『魔の山』を取ってレジに行く。ほんとは、単行本のトコに平積みになっていたガルシア・マルケスの本が読みたくなっていたんだけどね。だってやっぱり近代文学って所詮近代文学過ぎて、そういうのは青春時代に読まないと批判的になりすぎて没頭できない&己の「ドイツ文学鬼門」の性で、読破できそーにないかも。という一抹の不安があるから。

魔の山(上) (新潮文庫)

魔の山(上) (新潮文庫)

とはいえ誘惑に負けず上記の『魔の山』を持ち帰った私は早速読み始めたが・・・

げ!いきなり「サナトリウム」かよ?!!

とりあえずそういうお約束な舞台設定からはじまったですね。ちゃんと書評が書けるように読破できるのかね。なんだか既にドイツ文学固有のうねうねくだくだとした記述に滅入り始めているんですけど。というか『ブッデンブローク家の人びと』もそのだらくさとした表現にめげて、一族がなにやら集まって広間で食事をしているシーン(ほとんど冒頭)まで読んでやめてしまった。おフランス人のだらだら文学やイタリア人のだらだら文学、ロシア人のだらだら文学(・・というか近代はほとんどそんな感じだが)には耐えられるのに何故ドイツは駄目なのだ?不思議だ。特に嫌になるぐらい細部ばかり書くユイスマンスなんかそれが好きだってのにな。

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

買いそびれたマルケス。こっちの方が今のわたしにゃリアルな気がする。次は買う。絶対買う。

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ところで『ポーの一族』の「永遠」についてだけど、魔の山読んでるね。萩尾さん。まぁニーチェなんかもアレだし、ドイツ近代のテーマだったんすかね。<ドイツ無知