日本の殉教者の為の祈り

友人が「その後病状はどうよ?」と心配して電話をくれた。まぁだいぶマシになったということを説明しているうちに話はなんとなく『クワトロ・ラガッツィ』の書評に移った。
「書評の最後ってアレはカトリック新聞に載っていたのを受けてなの?」と聞かれたんだが、わたくし、実は「カトリック新聞」などというギョーカイ紙は取っていない。実は絵を描いたりとお世話になったりしているのでとろうかと思ってもいたが、なんとなくもたもたしていて取っていない。正直すまんな業界新聞である。
なんでもこのカト新聞によると今週は日本の殉教者達の為の週間で、それでこの殉教者について今週のカト新は特集組んであれこれ書いているらしい。

ま、その主張の中に信教の自由の問題を絡めた記述とか靖国問題に絡めた記述などがあるらしくて、う?うーん。政治利用っすか?

ローマ・カトリックといえばなく子も黙るスペイン異端審問等、信教の自由認めず異端撲滅に躍起になっていた黒歴史を持つんで、日本という限定した世界ではともかく、どうにも中世ヨーロッパ史やら古代ばっかり見ていると、塩野七生が「一神教とってどうしてこう×××」と怒るような偏狭さが目に付くんで、上記のような結び付けはどうにもグロテスクな滑稽さを感じてしまう。日本のように色々な宗教がしのぎを削っているような環境でそんな主張していたらたちどころに「アホか」と批判されるだろう。
まぁ身内的な狭い世界では通用する話なのではあるし、だれが列聖されるかなんてのは身内の問題なのでそういう外野の声を気にする必要もあるまいとは思うものの、「信教の自由」という観点を持ち出すなら、そんな身内的な狭い価値の中で考えていては結局外界と交流は出来ないんじゃあるまいか。宣教を考えたいならその辺り、客観性を持たないと不味いでしょ。などとは思った。

つっても記事を読んでおらぬので、どう語られているか不明。教会行って読んで来るか。>かと新

まぁそういうわけで、書評の最後の文はカト新の記述に喧嘩売ったわけでないのであると弁明しとくわ。
まぁ、列聖なんて政治利用されていることなど過去にもよくある話だけどね。というか列聖にはそもそもそういう性質がある。その時代、その時の教会側が何を主張したいのかが反映されるので、過去の聖人の列聖などもその周辺事情を知ると面白いけど。不真面目信徒としてはそういう動きのほうに興味があるし、またそれ自体を否定しない。教会もまた政治的思惑で動くものだということで。しかしてその「聖人」「福者」という個人が告げるものは、それぞれにそれなりの物語性があり、霊性を伝えるのも事実。そこがエクレシアの妙也。

で、わたくしは個人的には遠藤の「沈黙」のまなざしがを引きずってるんで。なんかね。歴史の中の辛い人が気になるんよ。評価されえぬ人々が。転んじゃった悲しい人だけでなく、今のカトリックには多くの隠れの子孫がいるけど、そういう方たちのご先祖さんたちとかね。えらいよね。数多くの殉教者達はもとより、そういう省みられぬことがあまりなき人たちにも思いをはせたいと思う・・というのがわたくしのこの週間の祈りになると思う。