産む機会、産む機械

昨日の続き。
■[社会・時事]女性機械論
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070131/1170252576
女性は産む機械発言柳沢厚生労働大臣の発言の真意が未だよくわからず。修辞にしては文脈からして出来が悪いし、第一突然すぎて馬鹿っぽい。政策論としては結局何をどうしたいのか判らず、その辺りの報道がないもんでなんとも評価しようがない。
ただ、ここでの柳沢厚労相君の思考ルーチンが、数による思考、数字によって決定していく思考なんだなということだけはよくわかった。

そもそも政治というのはいささかそういう傾向がある営みではある。合理的に考え、実利的に、多くの集団の利益を考えねばならない場面に於いて、おおざおっぱな括りで時に物事を診ていかねばならない場面もあるだろうし。(それは経済活動的な要素を伴う場合より顕著になる気もするが。)で、そういう場面でないがしろにされていく、個々の人間の尊厳というのは宗教的な要素が救い上げてきたり、或いは文化的なものが救い上げてきたり、とにかく社会のどこかで均衡が取れるシステムがなんらの形で働いたりするんだろうけど、まぁとにかく政治における思考とは、実利的なもので動いていく性質があると思う。

数多ある意見の中でそこを指摘していた方がいた。あの発言に対し「この発言についてどう思うかと言えば、ポリティカルにまずいでしょ、とは思う。実際、こうして大騒ぎになっているわけであるし。」と指摘しつつも、政治という思考については以下のような要素もあるだろうと指摘していて、「なるほどそうだよね」と思った。

○Green
http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070201
柳沢伯夫厚生労働大臣の発言について考えた

なんというか、世界の構造はみもふたも無いものであって、それをただあるがままに是とするのではなく、「かくあるべし」というフィクションを作り上げることによって、社会を変えてきた。社会には、つねに構造とのずれがあって、構造を浮き彫りにするために用いられる用語は社会的には不穏当なものになることがある。フィクション性が排除されるからだ。

人口を再生産する機能において、実際的な当事的装置となるのが初潮以後から閉経までの女性に限られているという事実、この事実を国家にとって有限なリソースと見なす眼差し自体は、フィクション性を廃するものとして合理的だと思う。社会的にこの機能が有限である、ということを柳沢大臣は言っているのであって、フィクション性をまとった女性なる政治的な分母から、機能を取り出すために、機械という突き放した言い方をしていると考えられる。

現に政治的なフィクションが存在するのだから、ポリティカルな立場にある柳沢氏がそれを無視して発言することは実際的ではないと思うが、少子化担当の大臣としては、むしろフィクション性を廃した視点を持っていること自体は望ましい。

少子化という現実は、政治家の機能のうち、フィクションメーカーとしてよりはむしろ、テクノクラートとしてあたるべき実際的な問題だからである。

厚生労働省というのは国民各個人の基本的な生活の保障についてあれやこれや考える部門だと思うので、確かにその立場の人が人間の根源についてどうよ?的な修辞を用いて公的に発してしまうというのはデリカシーに欠けるというか、光景として既にもう漫画的なグロテスクさがあるとは思うけど、しかし上記のような思考ルーチンを必要とするのも政治ではあると思う。

で、

僕が思うに柳沢発言で問題視すべき点があるとすれば、「あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」という、精神論めいた締めの部分である。

ここのところですね。ほんとに怒らないといけないというか突っ込みいれないといけない部分は。「一人頭で頑張ってもらう」というのはどういう意味なんだ?そこ突っ込んでくれ。マスメディアの方々。と思うのですよ。「産む機械」であるとされる女性の産む機会を奪っている社会構造ってどうよ?ってなことはわたくしも常にいい続けてきた。産める状態にあり、尚且つ産もうという意思ある女性に「頑張ってくれ」というなら、彼女達に対しそれ相応の措置をとるべきでしょうな。厚生大臣としては。ただ頑張れというなら誰でも出来る。しかし政治家は頑張る為の援助をすることを具体的に求められているわけですからねぇ。それにしても「一人頭」という意味がよくわからんのだ。

ま、いずれにしても、少子化問題というとすぐ女性がどうたらという女性に責を負わす方向に行く傾向というのはなんとなく多いんで、女性がその辺り敏感に感じ取りムカついて反発しているということもあるだろうね。社会全ての問題であるはずのことに「女性の産む人々が・・・」とか言われてもな。ぷんすかするよ。

女性は産む性であることはもう動かせないことなのは確かで、これは女性が生まれて死ぬまで、女性自身が一番身をもって感じていることで、子供を産みたい女性、産んだ女性、産みたくても産めない女性、産みたくない女性、どんな立場に関わらずどこかで「産むということ」は意識せざるを得ない。だからフェミ的な人、反フェミ的な人、女性論に絡めて話す人も多いんだろうし、それは判らなくもない。しかしその辺りは議題が拡散してしまうんで、こういった厚生労働省の政策を云々しなければならない場面では、形而上過ぎて混乱のもとになる気がしますです。