『心にナイフをしのばせて』奥野 修司

rice_showerさんに薦められていたこの本を読んだ。

心にナイフをしのばせて

心にナイフをしのばせて

出版社 / 著者からの内容紹介
1969年春、横浜の高校で悲惨な事件が起きた。入学して間もない男子生徒が、
同級生に首を切り落とされ、殺害されたのだ。「28年前の酒鬼薔薇事件」である。
10年に及ぶ取材の結果、著者は驚くべき事実を発掘する。殺された少年の母は、
事件から1年半をほとんど布団の中で過ごし、事件を含めたすべての記憶を失って
いた。そして犯人はその後、大きな事務所を経営する弁護士になっていたのである。
これまでの少年犯罪ルポに一線を画する、新大宅賞作家の衝撃ノンフィクション。

世の中が学生運動まっさかりの時代、ある陰惨な事件が起きた。『酒鬼薔薇』と同じように少年が少年を殺した事件。寮生活を共にする同級生の犯行。原因はいじめが発端だったか、被害者側からの、或いは当時の同級生からの感覚では「いじめではなかった」とするが、犯人である少年Aの証言はないために判らない。
この本はあくまでも被害者家族とその周辺の証言が中心で「少年A」からのまなざしはない。

この物語の舞台は私が住む同じ沿線の数駅先。金属バットで親を殺した子供がいたあの事件の舞台とさほど変らぬ新興住宅街。とはいえ28年前というとまだ電車もなく郊外の畑がまだあるような時代だっただろうから、新興住宅街とは言えぬ場所。私自身子供の頃からこの多摩川近辺はなじみがあるのでどんな雰囲気だったのかはおおよそつかめる。
更にカトリックギョーカイの人間にとっては馴染みのある学校や修道院が出てくる。被害者達が通っていた学校も、被害者の妹が通っていた学校も知っている。アルファベットで記されているがどこを指しているかすぐ判る。読んでいてこの家族を取り巻く環境やら雰囲気やらがなんとなくは判る。

この書は「異常な事件の被害者家族の物語」というより「突然に一人の家族を奪われた家族の苦しみの物語」に過ぎない。

被害者の妹を通じて語られる家族の修羅は重く苦しい。筆者は自分の意見を挟まず、妹の独白という形でほとんどの章を埋めている。それに対し、加害者である少年Aの現在は表面的な情報に過ぎない。被害者側からの視点で結論付けられたそれは、アマゾンの多くのレビュアー達が指摘している通り、一方的ではある。少年法に守られいっぱしの弁護士となり穏当な生活を送っている少年Aに対する評は、確かにここに書かれた記述を信じるなら更生したとはいえないようなものではあるが・・・彼がそこに至った葛藤はどんなものかは誰にもわからない。まったくなかったのか、違っていたのか、被害者家族への無関心が、理由があるのか、同じような弱さゆえなのか、まったくしょうもないのか、それは分からない。
ゆえに、この本は「突然家族を奪われた家族達」の物語であり、それ以外はあまり価値はないとはいえる。

ただ、その家族を突然襲った不幸の物語として読むならものすごく考えさせられる。妹の口から語られる家族の描写は辛らつだが冷静で、なによりも彼女自身が苦しみの中に未だいる。だけにその告白は重い。


突発的な出来事に対するそれぞれの弱さが主に被害者の妹によってむき出しに語られている。異常な事件の被害者であるということは幾つかの例(例えば妹がマスメディアや近所の人の好奇の目に晒されて、人のまなざしに異常に過敏になってしまったこと等)を除き、ほとんどを占める光景は子を突然奪われた母の狂気とその家族の修羅という光景で、こういう光景は例えば交通事故によって子を奪われた家族にも、病によって命を落とした子を持つ家族にも見られるかもしれない。いや、げんにわたくしもそうした光景を体験したことがある。早世したわたくしの友人の家族の苦しみが相似形にここに存在する。

息子が死んだことによって、その死と直面しない母。誰かに寄りかかれないと生きていけない母。その母の弱さが残った家族の生活をも破壊していく。事件が原因というよりは、そちらのほうに際立った印象を受けてしまった。事件以後ずっと寝たきりとなり睡眠薬を飲み続ける母。残されたもうひとりの子供のことを省みることもない母。夫の将来を鑑みることもない母。愚かで弱い母親の物語を読んだという気持ちになってしまった。ナニか申し訳ない気もしてしまう。子を奪われた母の狂気はすざまじい。それはどの母にも多かれ少なかれある。いや、母だけでなく突然大切な存在が奪われるというのは誰しもになにがしかの狂気をはらむ。私自身がそういう体験をしているだけにその感覚は微妙ににだが判らなくもない。今、振り返れば何故ああだったのか説明もつかない。そういう心理に陥ってしまうのだ。

こうしたことは通常、時間が解決する。なんらかの落し所を見つけて人は過去を克服する。しかしこの家族の不幸は落とし所がなかったことかもしれない。「事件被害者」という不幸はここにあるのかもしれない。父親が言う「山で死んだのなら」という言葉はそういうことだろう。突然、赤の他人の手で死ぬ。交通事故であれ、このような異常の殺人であれ、それは落とし所がなく辛い。

ところでこの本を以前書店で見かけたときに、その表紙の絵がなんだかこの事件を軽く面白くしたいのか漫画的な表現に抵抗感を覚えた記憶がある。実は作者のお嬢さんが書いたものと知って、そういう「売らんかな」精神ではない、作者もこの事件家族を通じ、自らの親子というものを考えたのかもしれない。

さて、rice_showerさんから以下の質問が来ていたので。

# rice_shower
お読み頂けると分かりますが、この父親の場合、自らの人格も崩壊寸前の生き地獄の中、自分だけでなく、妻、娘をも支え、救うことが出来たのが、キリスト教の信仰ゆえで有ったことは間違いないと思います。 聖書の或いは神父さんのどういう言葉が、彼にそこまで強靭な精神力を与えたのか、是非知りたいと思ったのです。』

この父親の場合、父親自身が元々強い人だったのだと思います。強いというのはある意味逃げ場を巧く造ることが出来る人だと思います。残された母がほんとに弱かったかというと、守ってくれる家族に寄りかかることで生き延びる知恵を持っていたともいえますし。しかし世間的にはそれは弱いとはされますが。一番強いのはもしかしたら娘さんだったかもしれません。しかし娘さんはこの共同体から逃れる未来という選択が残されていますから強くいられたかもしれません。

父を支えたのは確かにこの場合は「信仰」だったかもしれません。彼の逃げ場は教会だった。彼を支えたのは教会の人だったと。事情を知る別の家族を作ったからこそ、家族を支えることが出来たとはいえます。この家族はマスコミから逃れる為に修道院がかくまいましたし、事情を知る近所の人たちが支えてきた。多くの人が実はその背景で彼らの力になっています。けして孤立していなかった。

何故、父親が犯人を憎まなかったというと、これは娘さんも告白している通り、新たな修羅が生じるだろうし、ナニよりもそういう余裕すら持てなかったのだと思います。それくらい打撃を受けた。致命傷の傷を追った動物はまったく動かず飲まず食わずで自らを癒します。身体を動かす余裕がないからでしょう。それと同じなのだと思います。

人を憎むというのはかなりの精神力を必要とします。キリスト教では人を憎むなと、「汝の敵を愛せよ」と教えますが、まぁ人生において「敵を憎む」というのはかなり無駄な行為だとは思います。憎むことを原動力にする人もいますが、まぁ通常、憎んでいる暇があったら別のことに目を向けたほうが建設的なケースのほうが多い。エネルギーの無駄です。しかしこのケースの場合は、そういう意味ではなくほんとにそういうエネルギーがなかったのだと思いますね。

“神の沈黙”とは、例えば貴女の中ではどのように捉えられているのでしょう。 今の世界、神もまた憎悪の増幅器として利用、誤用されているように思います。

神は昔っから沈黙しているんですよ。そういうものです。神に期待しない。神自身「自分はある」という存在だと言ってますから、存在しているだけなんですよ。
依存しない。信じるだけです。「自分の行動を見守っている何かがある。」「自分を信頼し心配している何かがいる。」という存在を持つということが重要なんです。少なくとも自分にとって。だから現世ご利益的な神ではない。具体的にナニもしてくれないのだが、なんだか判らない安心を与えてくれるのが神。

ただ「祈りあう」という習慣があると前に書いたのですが、私は自分の苦境を祈るより他者の為に祈るほうが多い。そして他者が祈ってくれる。ここでも時々、自分の苦境を書くと「お祈りしています」といってくださる方がいる。どこかで気にかけてくれる人がいるんですね。
その「お祈りしています」という存在が、例えばこの被害者の父親を助けたのだとは思います。そういうのをギョーカイでは「教会」と呼ぶ。教会というのはそういう人の総体が作り出す関係性だったりするんだとは思いますが。(用法を間違うと傷の舐めあい団体に堕する可能性もあるが・・・)

神が争いの種になるのは、様々なケースがあると思いますんでこうだといえないんですが、民族主義なんぞが絡んでいたりする。
それぞれの陣営が神のせいにすることで自己正当化を計るわけですが、そういう場面では神は人間の道具に成り下がっているわけで、それに於いて神をないがしろにしているから「地獄に落ちる」かもねぇ。ブッシュなんかもうね。駄目でしょ。

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この事件関連で興味深い意見

○少年犯罪データベースドア
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/archives/50762404.html
この本にはどうもいろいろ問題があるように感じるのですが、その最大のものは精神鑑定書の引用のやり方が著者の意図に合わせた恣意的、それもかなり悪質なものではないかと思える点です。

著者、奥野氏の少年Aの扱いに対する疑念。
精神鑑定書の恣意的な引用等の指摘。
上記サイト内のここ↓で鑑定書の記述を読むことが出来る。
http://kangaeru.s59.xrea.com/kubikirikantei.htm
この鑑定書を読む限り、自分がしでかしたことへの罪を自覚しているように見えるが。

奥野氏が「少年法」の改正を求めてこの書を書いたならかなり悪質なやり方だとは思う。ただ、事件被害者の救済については同意見であり、そのためにもこうした事件被害者のかかえる問題を知っておく必要はある故にその文脈であるならばこの著作には意義がある。

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ドーデもいいけど、サレジオ関係ってナンじゃか事件多いな。最近では乗用車に突っ込まれた事件とか。「サレジオ 事件」って検索すると色々でてくる。
お払いしてもらった方がいいかもよ。ドン・ボスコに毎日御饅頭お供えするとか。

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このエントリの続き↓
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20061127/1164599718
■[書評][カトリック]『心にナイフをしのばせて』2