教育基本法の改悪

ええっと、あちこちでこの話が出ているのを読む。
そもそもが教育基本法ってのをよく知らないので調べてみた。
はてなのキーワードに全文出ていますよ。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%B5%B0%E9%B4%F0%CB%DC%CB%A1

昭和22・3・31・法律 25号 ってのがそう。
これ読む限りナニがいけないんだかさっぱりわからん。これを改正しなくてはならないというのは例の「愛国心」問題か。
元はといえば日の丸君が代反対の教諭が生徒そそのかして卒業式を混乱に陥れたアレだ。個人的には日の丸君が代に反対ではないが、学生みたいに青臭い年齢ならそういうのはいるだろうから、卒業式に反抗してもしょうがないと思うものの、教諭が率先してそれをやるってのはどうよ?と思っていた。教師の反抗期。親方日の丸に雇われて反抗している。
冗談は抜きに、これは改正前の法案の・・・

(政治教育)第8条 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

に関わるではないか。日の丸君が代に敬意を示すのも政治思想なら、日の丸君が代に反対するのも政治思想。とり合えず国家レベルで決着つくまで慣習としてやっとけ。餓鬼を人質に取るな。とか思いましたんですが。どうなんでしょう?

対する「愛国心」こっちも思想的なスタンスに関わるので、盛り込むとかというのもどうなの?と思っておりましたよ。まぁ国家レベルで考えての結果といえば国会で通っちゃったのだから野党はナニにやってるかというかボイコットしてる場合でなかったと思うんだけど。
愛国心」というのはそもそもすごく曖昧でどうとでも取れるだけに危険度も高い爆弾。公教育で教育してやるってのはもう余計なお世話というか。で、流石に言い方が変容したらしく、「伝統と文化を愛する」だかになっているけど、これって本来家族のレベルでやることだよね。(うちのばあちゃんみたいに「浅井長政がどうたら」とかさ。耶蘇の癖に家の仏さんのご飯は欠かさないとかさ。)しかしあちこちで見られる光景は家族の機能がちゃんと機能していない現実。家族教育の崩壊。DQN親子ネタは枚挙にいとまがない。

これに関してはI司教がこんなご意見。
カトリック時評
http://www.mr826.net:8080/psi/catholic/061115/
教育基本法改正案をめぐって

■教育とは何か
では、教育とは何か。それは人間が「人間になる」ために不可欠な営みである。人間が人格としての「高貴な召命と使命」に目覚め(人格の形成)、それを生きて自己を実現(人格の完成)するには、相応の教育を必要とするからである。

たとえば、精神的な存在である人格の形成には宗教教育を基本にすえた全人教育が重要であるが、そのような教育は、特定の宗教教育を行うことのできない公立学校に期待することはできない。改正案にはこのあたりの明確な指摘がなく、公教育を充実させればそれができるかのような印象を与える。

本来の人格教育は、両親の宗教的信念のもとにまず家庭において行われなければならない。子供に教育を授けるという第一の権利と義務は、誰よりも子どもにいのちを授けた両親に、究極のいのちの原理である神から与えられているからである。従って、家庭の再生なくして教育の再生はありえない。その上、両親はその責任を果たすために、必要な学校を選ぶ自由(権利)を持っている。親たちが自身で必要な教育を施すには明らかに限界があるからである。

まぁ聖職者なので「人格形成は宗教的信念で」と仰られているが、各家庭の「思想的信念」でも同じ。以前の教育基本法ではこの辺りは明快だった。そしてそれは家庭内教育が機能している前提であった法だとは思うけど、司教が以下のように嘆息している通り

本論に入る前に、わが国の教育事情は大きな岐路に立っており、教育問題を根底から見直すべきときはすでに来ていることを指摘しておこう。青少年を取り巻く環境が大きく変わり、教育のひずみがいたるところに噴出しているからである。この変化の最大のものは、家庭教育の崩壊とメディアの影響の増大であろう。

*おおっと*メディア批判かい。まぁマスコミは決して自分達の批判しないからねぇ。それもまた最大のひずみ要因ですね。
で、「青少年をとりまく環境の変化」が今のひずみを生み出しているなら、じゃぁどうすればいいのか?という解答が政府の提案する基本法改正だとするならそれもまた違うとは思う。

司教は公教育の限界についても述べておられる

■公教育の使命と限界

そこで国は、親の権利を擁護して家庭教育を支援するとともに、現代人が必要としている学校など、教育機関を充実して親の使命を補完しなければならい。国の教育権はもともと「補完的な任務」なのである。教育基本法改正案を見る限り、国本来の教育的使命とその限界が明確でないから、政治家たちが教育の国家統制に走る恐れはないか心配である。

内田樹氏が「文部科学省は教育現場のことはほっといてくれ」といってるのと微妙に違うけど、国が教育の現場に口出しする懸念はよくわかる。

ところで、「伝統」について、昨日のエントリでうちの一族の都市伝説を紹介したけど、京都辺りの人っていつの時代に生きてるか判らないことをタマに言う。京都は昔日の京の都を今も誇りに思っているのだがそれが今現在、コンテンポラリーに「昔」という軸がある。私なんぞは歴史の出来事は歴史の出来事と切り離すが、京都の人はどーも「今に繋がるナニか」と思うみたいだ。それがいい部分もある。昔ながらの店が今もつぶれずに生きているってのは、しごくタマに京に行く私などは安堵してしまう。東京の変容について行けないので、変らない物が多い京都は有難い。それでも子供のときと比べるとすごく変ってしまった。
よくない部分としては未だ声を潜めて部落の人のことを語るときなどに現れる。こういうとき「伝統」が持つ排他性に気がつく。一族の都市伝説がのちの子孫を苦しめることもあるだろう。だから「伝統」ってのは危険なものだと思う。よく考えて付き合わないとやなモノも生む。
個人的には古いものがすきだし伝えていった方がいいよな「伝統」は大切にした方がいいと思うけど。難しいよね。

例えば、私はたびんちゅだけど、やっぱり島の伝統は大切にしたいなどと思う。生まれ育ったわけでもない島の文化や伝統が大切だったりする。それって別に公教育で学んだわけでなく親から受け継いだ考え方に起因するかもしれない。それに住めば都な精神って自然に生じたりしないか?
世情の歪みがあるとするなら、大人の価値観が示すものが歪ませているだけじゃないか?日常に接する大人の、つまりマスメディアを通じてのみならず、市井に生きる我々の言動が全て次世代に影響を与えていることに我々自身が気がつかないと駄目かと。
まぁ違法駐車して注意されて切れる大人とか、電車の中で下品な振る舞いしている大人とか、迷惑顧みずたいしたことないのに救急車呼ぶとか、金さえあればなんでもできるんだと豪語する大人とか・・・大人気ない振る舞いをして開き直ってるのが多数いるよね。
親方日の丸に文句いう前にまず自分達が生活正せと。公教育なんかに期待しても無駄だと早く気づいた方がいい。