赤ちゃんポスト

ま・ここっとつぁまがこんなブログ記事紹介してくれた。

勝谷誠彦の××な日々。
■2006/11/11 (土) 無責任国家に次に出現するのは「老人ポスト」だな。
http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20061111

なんじゃ?「赤ちゃんポスト」?妖怪ポストじゃなくて。
勝谷さんはこんな記事に怒ってるみたい。

http://www.asahi.com/national/update/1110/SEB200611100004.htm
▼近く保健所へ施設変更届を提出 「赤ちゃんポスト

様々な事情で子育てができない親が乳児を託す「赤ちゃんポスト」の導入を決めた熊本市の慈恵病院(蓮田晶一院長)は10日、記者会見で概要を説明し、「捨てられる赤ちゃんの命を救いたい」と強調した。13日に市保健所に病院施設の変更届を提出し、認められ次第、ポストを設置して受け入れる。

おお。こりゃあれだ。かつてルネッサンス期のフィレンツェであんまり無責任な親が多く、あちこち捨て子が増え、ついに溜まりかねた大司教アントニーノ(アンジェリコの友人)が当時の裕福な商家の人々をパトロンにして捨て子養護院を立てたってアレだな。今もブレネレスキの素晴らしい建築がありますよ。サンテッシマ・アヌンツィアータに。

勝谷氏は

病院側は善意のつもりだろうがこういう勘違い馬鹿の押しつけ善意ほど迷惑なものはない。耶蘇の手前勝手な性善説が日本国民の底抜けした倫理感に通用すると思っているのか。

・・などと書いているが、耶蘇呼ばわりたぁ酷いな・・・こういうこというヤツがカトリックなお子様をいじめるんだろ・・・じゃなくて、これはどう考えても性悪説に基づく対処療法ってやつだよ。イタリア人のやることは概ね「人間様は悪いことするのが普通だから、こうでもしないと駄目っしょ」的に行われたりする。

ルネッサンス期にそれで捨て子が減ったかというとたぶんそうではないと思う。とにかく棄てられる子供をどうにかしないとマズーな状況だから行ったのです。放置されて死ぬ赤ちゃんがそれほど多かったからなんだが、しかしこの病院、いわゆるルネッサンス型の捨て子を想定しているのか?そんなに多いのか?置き去り赤ちゃん。

そうでなく中絶禁止ゆえの措置とかそういうことだとすると、アレだ。マザーテレサの言う「中絶はよしなさい。私が育てます」というアレですね。

で、これもま・ここっとさんが教えてくれたのですが、この病院「カトリック系」などと書かれているらしいけど。現状では医療法人に譲渡されたらしい。だからカトリックで発行している教会関連施設の名簿にも載っていないそうだ。ということでそれを指摘しているブログ。

○ちんぐゎら日誌
http://hijiri.umemoto.org/2006/11/11/catholic-hospital/
[赤ちゃんポスト]熊本の慈恵病院は、「カトリック系」?

まぁ病院のサイトに「キリスト教精神で」なんて言ってるんで、確かに現行のカトリックの組織内の機関ではないにしても「カトリック系」でよいのではないか?

しかし、確かに今やルネッサンス期のフィレンツェ並みに「育ててくれる人がいるからいいや〜」なんて能天気なDQNが無責任に子供棄てていくなんて増えそうではあるので、勝谷氏のお怒りの所在はよくわかる。いやはや。

◆◆
ええっとこのエントリ書きかけ途中で電話が来て、その後仕事してしまって中途半端になった。

書きたかったのは、勝谷氏が「耶蘇」呼ばわりする社会が何故それが成立するのかということだったのだ。性善説だから成立するのではない。子供は一人格として親と切り離された存在として考えるからだ。子供は半人前なので養育者が必要ではあるが必ずしもそれは血がつながっていなくともよい。という発想がどこかにある。確かにその根底には「子供は神からの授かりものである」という耶蘇的な発想ではあるだろう。
これはイスラムなどでも、子供は神からの授かりものゆえに親がバースコントロールをするなどもっての他。と、例えば中国の少子化問題で政府とイスラムの民族が深刻な対立を引き起こしていたなどということもある。

血を重んじる日本では子供はどこか親の所有物的な、或いは親の一部的な発想があるのかもしれない。それが例えば虐待に対する腰の引けた対応にもあるのではないか?

電話をくれた友人曰く「子を棄てるやつは。結局、子を虐待するようなヤツだ」とか。「だから、虐待するような親に育てられるよりはマシだ」それはまぁ極論かもしれない。というのも施設での養育というのもこれまた難しい。
しかし最近の秋田の子殺し事件でも、新しい男が出来たら子供を疎ましく思う的な意識がどこかにあっての虐待だったのではないか?子供は親の一部であるがゆえに切り離すには攻撃するしかないのかとかそんな心理でも働いてるんじゃないか?などと思わなくもない。
あるいは子供のことになると逆上する親が増えたのも、子供と自分がどこかで同化しているゆえの心理ではないか?

キリスト教的な親子概念が全面的にいいとは思わない。というのも日本ではかつてはそれが「家」というブレーキがあり、「家名」という倫理機能が存在したからではあるが、こちらに関しては我々がその利点も弊害もよく知っている。

ただ、今のような核家族的な社会ではそうした子供の「個」というものをどう考えるかってのは考え直さないといけないだろうなとは思う。それは個ゆえに馬鹿みたいに尊重するということではなく、社会生活に未熟ゆえに指導が必要な。しかし個体なのだという認識ともうしますか。