カテドラル・ラテン語ミサ

内輪ネタ。ギョーカイねたです。説明省きます。
毎年やっているアクション同士会主催のこのミサも16回目らしい。へぇぇ。すごいね。継続は力なり。なんじゃか以前よりずっと人も増えた気がする。
わたくしはあまり好きじゃない。あまりにイベント的になってしまってどうも祈るという方向性に行かないからなんだけど。それにラテン語でやるだけで典礼は普段とさほど変らないし、唱は気合入っているけどすごく巧いとは言いがたい聖歌隊。(巧いのもあった)まぁ懐かしい聖歌集の唱やグレゴリアンなんかでそれはそれで嬉しいことではあるけど。でもねぇ。ミサは祈りなんでイベント的なざわざわ感がどうしてもあるのは辛いかな?先日のグレゴリオの家のコンサートのほうが祈りの場的で、今日のラテン語ミサのほうがコンサート的ってどうなんざんしょ?とはいえこればっかりは性質上仕方ない。日常接することの出来ないものに飢えた人が沢山やってくるわけで。信徒の数、参加人数もえらく違う。様々なトコから来てたみたい。あのでかいカテドラルに人が沢山つまって狭いくらいだ。

先日べね16ラテン語ミサもやれるのよ。やりませう的なことをいったらしい。日常にこういうのに触れたいという思いが皆の間にある。だからこんなに集まる。それってどうなんだろ?もっと日常にあるならこんなことしなくても済む。ただのノスタルジーと片付けてしまうには大きな問題があると思う。
普段のミサは簡素化し、唱はしょうもないし、祈るって雰囲気に欠ける。母教会のもなんじゃか酷い。霊的な空間がない。別に唱が古ければ霊的になるかというとそうでもない。祈りの園のペドロ神父のミサなんかも唱ミサだけど、今風の音楽でやるんだけどそれはまた違う祈りの空間になっていた。
今風というとミサキャラバンとか言いながらフォークミサみたいなグループがいて、このミサはどーも駄目。唱と祈りが一致していない。ただのフォークコンサート。「皆に聞かせる為に俺達やりたいっす」みたいな空気でいたたまれなくなる。「祈りに来たんだ!おまえらの唱や演奏が邪魔だ!黙れ!」と叫びだしたくなる。もとの姿勢が違うんだろう。祈る為というより「新しいミサをやってるんだぞ」って感じのほうが強い。そもそもフォークに連帯できない人種ははじかれる。つーか今時フォークって・・・・。以前から皆が言ってるけど、マジ世界狭すぎ。キャラバンってネーミングもヒッピー臭いし。学生運動世代のノスタルジーには付き合いきれません。パンク世代はこういうのダメポ。アメリカンなフォークは敵だったな。ジェン・デンバーとか馬鹿にしてたしな。もうね生理的に受け付けない。・・ってこれもう言うの何回目だ?私だけじゃなくあちこちで聞く意見だけどね。
まぁ「演出」は好みの問題だからしょうがない。とはいえ祈りの場が好みによって左右されるのはほんとはよくないんじゃないか?祈りに向かう音ってのがある。今時風でも、昔のものでも。
典礼に関してべね16がいうことはもっともだと思うことは多い。
かように伝統がぶっ壊れて陳腐化したプラスチックな安い文化が蔓延しているのはカトリックギョーカイも同じである。アクション同志会って「同志」なんていっていて、なんじゃか胡散臭いんだけど、まぁ気持ちわかります。

しかしラテン語の音を聞く環境って、日本の教会は今やあまりないです。祭壇周りに何もないし。目に見えるものがない。感覚人間にとっては正教会に移りたくなるねぇ。友人からカトの難民が正教会に移動しているらしいと最近聞いた。カトから正教会に改宗してしまう人が増えているそうだ。祈りの空間を求めて移動すると聞いた。政治色の強い司祭を嫌って逃げている人もいるとも聞く。どうなっているんだろう?気持ちはすこぶる判るだけに実は寂しい。