文明と野生/子猫殺しへの大衆心理

私の好きな作家にポール・セローという人がいる。どこか皮肉な視点で世の中を見回す。彼の作品の 『写真の館』は女流写真家の話だった。オキーフ辺りをモデルにしたような、孤高に作品を作り続ける女性を覚めた目で書き出していく。
彼の作品でもっとも有名なのはこれだろう。

モスキート・コースト

モスキート・コースト

何故か著者のセローの名前がない。訳者の名前だけって、アマゾンはナニやってるんだ?
(あ、↑こっちでは反映されるんだ。アマゾンの紹介にはでないのに。でも作者の記述がおかしくないか?訳者が作者になっとる)

これは映画化もされていてハリソン・フォードが主演していたので覚えておられる方もいるかもしれない。

モスキート・コースト [DVD]

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リバー・フェニックスも出ていたんだね。

この物語は文明人たる主人公が文明を捨ててジャングルの中に入っていくことからはじまる。アメリカという過剰に文明化された世界に生き苦しくなり密林へと家族ともども暮らしはじめる。主人公は発明家であるが故にこの密林で冷蔵庫を作りはじめてしまう。文明を捨てたはずの彼が文明を捨てきれない皮肉。そのどうしょうもない自然回帰志向を皮肉った小説でもあるがどこか物悲しい。
この野生を求めながら文明を棄てられぬ滑稽さ。坂東眞砂子もそのひとりだろう。昔の価値的世界。野生の豊穰さと野生の無情さを賛美しながら。しかし都会人の思考で考えてしまう。「島では避妊はしない。ただ間引くだけだ」というだけなら何もここまでの拒絶はなかっただろう。しかし文明人たる彼女は避妊という手法があることを知っていて、それが選択可能な中で言訳をしながら告白する。その逡巡、野生にも身を投じきれない人間が何故文明を否定するか?多くの人の中にそういう無意識の怒りはあっただろう。何故なら彼女の野生の否定は我々が生きる社会への否定でもあり、そして否定するなら対文明テロリスト、ユナボマーみたいに腹括ってしまうならまだしも、或いは徹底しきれぬなら覚めた目でどこにも足を置かず、自らすら覚めてみるくらいの客観的な「言葉」があるならば納得もされただろう。セローのごとき小説なら、我々も考えたかも知れぬ。しかしただただ自分語り的なまとまりのないアレでは。

この件で再び『てるてる日記』のterutellさんがトラバ下さった。
http://terutell.at.webry.info/200608/article_4.html
■そこに空き地があるから *2006/08/25追記

坂東真砂子さん自身がいろいろと書いているが、それが自己正当化とか自己陶酔とか受け取られているけれども、たぶん、ほんとうのところは、理屈じゃない、自分にとっては昔なじみの方法の方が自然だと感じられるんだと、いうことだったんではないだろうか。

自己正当化に見えてしまう現象は上記に書いた通りではあるが坂東氏の根底には確かに「昔なじみの方法」へのなにかそういうモノはあったかもしれない。

わたしは坂東眞砂子の「子猫殺し」即ち「間引き」に生理的な嫌悪などは感じなかった。しかしあまりに多くの人が「生理的嫌悪」を感じていることに違和を抱いた。ファンである人までが過剰な反応を示す。「生理的にもうダメ」それがナンなのかわたしにはさっぱり判らなかった。「子猫を崖下に投げ捨て殺す」は確かに気持いい光景じゃない。で、しょうもない言訳めいた情けないエッセイだとは思っても「生理的な嫌悪」ってことまでには到らない。まぁ私自信が避妊手術なんて文明がない島にいるから余計になんだろうけど。

私が激しい生理的嫌悪を感じたのは『2ちゃんねる』で猫を虐待し、いじり殺したあの事件である。うっかり写真を見てしまったがために夜うなされた。目をつぶると苦しむ猫の姿が浮かんで来る。未だにぞっとする。それをやったヤツをこれはもう社会的制裁を加えて藻いいだろうというほどに激しい怒りを覚えた。きっこさん並の罵詈雑言ぐらい吐いたと思う。

同じ「子猫を殺すこと」なのにどうしてこう受け止め方が違うんだろうか?
それは己の快楽の為に後ろめたさすら感じずただ面白がりながら殺したか、後ろめたさを感じつつ社会的な〜〜と「言訳」しながら行う、その罪の意識のありやなしやの差違にあるんだと思う。そういえば殺人の軽重もそれを問われる時はこの本人の罪の意識の有無にかかってくる。動物の場合「虐待」という犯罪が成立するならおそらく「快楽の為の殺し」という前者だろう。「間引く」という行為は文明の涯の土地では日常に存在する故に。

人々の反応に対しterutellさんはこのように指摘する

私が坂東真砂子さんのエッセイを最初に読んだのは、「きっこのブログ」だった。だから最初から、坂東真砂子さんの「子猫殺し」の内容よりもむしろ、きっこさんの反応の方が強烈で、何もそこまでしなくてもいいだろう、という気持ちが強かった。これじゃあリンチを煽っているようなものではないか、ちょっとやりすぎ、ちょっと待って、冷静になって、きっこさん、「きっこのブログ」の読者の皆さん! という気持ちから、この問題に入っていった。だから、他にも、一方的に坂東真砂子を責めるだけでなく、もう少し考えよう、というブログや投稿があると、共感を持つことが多い。坂東真砂子批判非難なら、もう、無数にあり、そうなると、これは群集心理じゃないかとか、大衆によるリンチじゃないかとか、恐怖を抱いてしまう。おおぜいの人間の憎悪や嫌悪の塊を見ることは、それだけでこわい。たかが猫のために、なんで人間がそこまで憎まれなければならないのか、と思う。だから、異常なまでの多くの人々の敵意に自分までが参加したくない、どうせもともと猫も犬も飼ったことが無いし、というのが、私の立場である。

今回の件で私が生理的に、つまり背筋が寒くなるほどにぞっとしたのは、寧ろこうした人々の極端な反応だった。これは中世の魔女狩りにも通じると書いたが、異質なもの、生理的に受け入れないものを「穢れ」として忌み嫌う。「生理的に受け入れない」とはまさしくこの「穢れ」の根底にあるものなのだ。昔の人々が動物を屠殺する人々に抱いた生理的な嫌悪。それが「穢れ」意識を生み出し、最終的に差別を生み出した。だから「生理的にダメ」という感情から素直に直結して排他へといくような構造は怖い。「生理的にダメ」はまぁ人間本性の部分であり個人の感情だ。それは仕方がない。そして仲間うちで「トンでもねーばばぁだ!」「すごく嫌〜」と話すこと自体もまぁ誰にでもある。しかし、それを社会において公的に糾弾する、つまり大使館に訴えるとか、そういう社会的行動にでるには、何故「生理的にダメ」なのか冷静に判断するべき側面である。我々は近代の歴史の中で「生理的ダメ」に発する「穢れ」意識からくる「他者の排他」を長い時間かけて克服していった。だから今でも己の「生理的にダメ」が果たして適合か不適合か。客観的に問う必要がある。

前のエントリで「死に舞」さんの坂東眞砂子批判を紹介した。冷静な批判、判断とはああいうのを指す。ネットもまた公的な場だ。私的な発話の場ではなく公的な性質を持ち併せている。だからバッシングという行為が起き易い。それ故に冷静に物事の判断をしていかないと、文化大革命期のあの恐ろしい光景、或いは魔女狩り、そうした「暗黒の中世」と言われるモノへと堕していく。

ただ、今回のネタ、感情に走らず考え続ける多くの人のブログを読むことが出来た。発展したさまざまなテーマに考えさせられることも多かった。感情論できぃきぃと「ナニ?この馬鹿女?」「訴えなきゃ」などと言ってるのは論外だが、そうではなく「何故?」と発することからはじめるような。最終的に「やはり嫌〜」に達しても、考え続けている人のそれは違う。たとえ私と違う意見だったとしても考えさせられる。説得させられる。

あるいはかつてあった光景を描いている人が沢山いた。それはそれぞれの見た「猫が間引かれていく」光景。そういうのを思い出し今ある自分の環境を見つめ直してしまうような。そういうのはすごく心を打った。ああ、そういう光景あったよね。と。

それは収穫だった。出来れば共感した全てのブログを紹介したいのだが、まぁ私が紹介するまでもなくすでにあちこち皆様、目を通しているのだろう。
◆◆
かつてあった光景の例
eirene
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060826/p1
■[生活]動物との関わり

eireneさんの見た子供時代の光景。豊穰な自然がかつては身近だった。
そういやうちの島では山羊は食物だ。島の人のお祝いに供されるもの。ぜいたく品。
山羊殺しのばあさんがいたが高齢らしく今はどうしているんだろう?ばあさんちのガラス窓に「やぎ肉あります」とひらがなで書かれているのがなんか嫌だったけど。すごく個人的に。判る人には判ると思うが。

■■追記の備忘 坂東眞砂子ー子猫殺し
冷静な面白いものがいくつか出てきている。ので備忘

○eirene
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060827/p1#c
■[生活]動物の間引き
→間引きという観点から。殺す手間を誰かに託す管理社会。避妊は「楽」そうだ。或る意味、楽なんだよ・・・。

○+ C amp 4 +
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060826/p1#c
■[philosophy]坂東真砂子氏からの宿題
→この問題は社会的な提言を孕んでいる。子猫殺しの是非だけでなく、優性思想に基づく思考に最終的に通じてしまうロジックとしての「社会責任」という言葉の重み。

私たちはこの問題に対して、しばしば、社会的相当性という言葉で通り過ぎてしまう。
法的評価が置き忘れてしまう暗部をもう一度覗き込む必要があるのかもしれない。

てゆーかトラバしたら休眠していらした、そりゃないぜ。というわけで10月まで待ちましょう。