粗雑な宗教観

まここっとさんからチクリ記事

▼女子中学生の要請で性教育授業が実現
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060621-49301.html
ニューヨーク市の衛生当局によると、同地区の10代女子の約13%が妊娠を経験。しかし、カトリック色の強いブッシュ大統領の影響もあり「結婚まで禁欲」の思想教育に巨額の予算が割かれ、「性教育はタブー」とされエイズ予防の指導もおざなりだという。

うへぇ。情報は正しく伝えましょう。
カトリック色が強いと性教育がダメなのか?いや、別に性教育なんか私個人的にそんなのご家庭や先輩後輩とか友人とか個人レベルでやれよなどとは思いますが、そういう問題じゃなくて、ブッシュ君はカトリックじゃないっす。ナニ考えてんだか。
まぁ「ブッシュがカトリック信者である」とは書いてないんですが、ブッシュさんはプロテスタント福音派と呼ばれるところの方です。情報は正確に。スポーツ新聞なんて所詮ガセネタ新聞とは判ってはいるけどあからさまな間違いは脳味噌の程度を疑われるよな。
ブッシュの対抗馬として出馬した名前を忘れちゃった大統領候補はカトリック信徒で中絶賛成派だったけどね。
で。こんなのも発見。

現代の聖母・マザーテレサ
http://soratobu.where-i.net/essei19.htm

マザーテレサについて・・・

正直な話???小説の題材としてみる場合、彼女ほど書きづらい人はそういません。
私は彼女について書かれた日本の本をかなりの数読んでいます。
けれどもそのうち彼女の欠点についてふれられているものはいくつあると思います?
なんとゼロです。

たぶんこの数字は外国籍の書物にまで手をのばしても同じでしょう。
マザーテレサは現代の聖女であり、彼女を非難することは自分の母を非難するも同じである」
これが出版界にもやのようにただよっている空気です。

まぁ、マザーテレサの本はほとんどギョーカイが出してるからねぇ。マンセーなのは当り前でしょう。だからカトリックぎょーかいの出版物はすごくつまらないんだけどね。でも実は資金集めにおえらいさん相手に大立ち回りしたとか色々あるんではないかな?ただその目的があきらかに私的なことじゃないから、文句を言えないだろうとか。そういう構造だから確かに「非難」しようはないかもね。所詮人間だから弱いところもあったと思うけど。それは実際の彼女と共にいないと判らんとは思う。

で、このブログの方はマザーの負の部分が見えないとそういうことをおっしゃっているんですが、人間なら当然ある負の部分。イエスだって空腹でイチジクの木を枯らしたエピソードが残るぐらいなんだからそういうレベルでは確実にあるでしょう。負の部分を書いたからといって非難されることはないと思う。それこそが人間が人間であるがゆえんであるわけで。

・・・で、このぶろぐの方、何故彼女はそのような人であったのか?と悩み分析してみようとするわけですが・・

キリスト教の教えがあったから?
とんでもありません。キリスト教の歴史なんて、高位聖職者の贅沢と権力の歴史ですよ。(実は思いっきり差別風潮が強いです。キリスト教は。男女を公然と差別し、さらに、人種によっても、また生まれによっても差別します。外国人がローマ法王になったのがいままで何回あります? 黒人のひとに対して彼らはなんと「これは人か家畜か」と本気で議論してたんですよ? また私生児はただ私生児というだけで、とことん差別されます。正直「どこが人は生まれながらにして平等だって? 平等という言葉の意味一回調べてこい」と私はあきれ果てているのですが)。

 じゃあ、神の啓示があったから?
 こればっかりは彼女に聞かなければわかりません。神の言葉とは、いかなるものだったのか……。

はぁ?なんじゃこりゃ?マザーのあれはキリスト教の性ではないと。そう言いたいらしい。
マザーの負の部分が見えないと悩む人が、キリスト教に関しては負の部分しか見ないで、善なる部分は見ようとしないという矛盾。
あのなぁ、キリスト教の教えがあったからに決まってるじゃないか。もうね馬鹿かと。

上記の個所については実は突っ込みどころ満載なんだけど、やめとく。

でだ。本来、キリスト教の教えはマザーのようなのを目指しているわけだが所詮人間の集団、馬鹿ばかりが多くて目立ってしまう。だからそう思われても仕方がないんだけど、しかしマザーのような働きをしている無名の人々が実はものすごく沢山いる。そういう人は声を上げない。宣伝もしない。黙々と自らが使命とする働きをしているだけ。世界のあちこちで、或いは日本の国内でつらく苦しむ人の為に働いている人がいる。とてもじゃないけど真似の出来ないことをし続けている人がいる。彼らを支えるのは「キリスト教の教え」だ。つまり「神」を知るからだ。マザーの強さはそこにある。神に対し誠実であることはイコール隣人に誠実であること。おのれが発する言葉は最期まで責任持つ。それは神に対し誠実であろうとする意識から来る。しかし概ねの人間はマザーほど強くないからなかなか出来ない。それがどういうことかは「キリスト教の教え」とやらが教えてくれるよ。

まぁ、キリスト教にしてもカトリックにしてもこういう誤解に取り囲まれ、マザーのような善人はカトリックによる結果じゃないなどと言われる。酷い話だ。ものごとには両側面がある。マザーにだってきっと負の部分はあっただろうし、カトリックにだって善の部分もある。どんなものであれ複雑に善と悪とが表裏一体で共存している。物事というのは例えばある側面からすればよいことが、ある側面からすると悪いものになることもある。上記のブログの人のように単純化してものごとを見る方が危険だ。

まぁ権力(教会・国家)VS民衆とかそういう単純構造思考を最近あちこちで散見するけどそんな単純なもんじゃないと思う。いいかげんそういうマルクス主義的な単純化は秋田。まぁ個人的にはプラグマティックスな教会の面白い側面に興味ある。なんでも利用してやろうというローマ的な実用主義というか。民間信仰的なものを採り入れていく手法や民衆にスペクタクルを与えるローマの支配者のごとき方法論とか。貧しい子供たちの為にサッカーを教会が推奨したって話を以前書いたけど、よくマーケッティングしているよ的な感心をしてしまいますですね。