少子化ってどうなのよ?

ハテブ巡りしていたらこんな記述発見。

■[アメリカ]アメリカ人の育て方3.1 - 女神復活 06:55
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20060606/1149544557
ダ・ヴィンチ・コード」の映画を見たので、2年ほど前に読んだ原作を読み返しているのだが、ここではカトリック教会が中世以来、それまでの女神崇拝文化を破壊して魔女狩りを行い、女性を低い地位に貶めたという話が出てくる。いずこも同じなのだ。そしてようやく今、女神が復活した時代がやってきた。

社会の女性問題を考える、それ自体はまったく賛成である。つーのは少子化問題マスゴミの論調とか、マスゴミの主張が却って女性を追いつめて余計に少子化に向わせていると思うからであって。「おまいら、女にばかり責任負わすな。あいかわらずの男尊女卑だな!!!」と言いたくなる論考が大杉。なもんで概ねの論は大賛成なのである。

因みにこちら↓が上記エントリの前の論考。上記と併せもう激しく同意。

http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20060605/1149467292
■[アメリカ]アメリカ人の育て方3 - 親に甘〜いアメリカは高出生率
→親へ過度な要求をしないアメリカ社会。そして社会全体が子供に寛容。日本のようにギスギスしていない。
そうしたアメリカの現場からのレポートは大変に参考になります。

で、ちょいと先ずはいつものお約束のカトリックネタね。
引用したダ・ヴィンチ・コードのこの歴史観にもにょってしまった。ブロガーさんはアメリカ在住の方らしいが、アメリカでは欧州中世史ってほんと、歪められているのかもしれないです。なんせアメリカ人には歴史コンプレックスがある。伝統なんぞないそのルサンチマンの結晶がダビ公といえる。ダ・ヴィンチ・コードのようなトンでも本の歴史観を読んで真に受けている人がこんな知的なレベルにもいるのを何度も見てきたが、はっきり言って困ったものだ。

アメリカ発祥のプロテスタント福音派からは「カトリックは女神を拝んでいる」「マリアという存在を礼拝している」「父なる神よりマリアのほうが人気なのはおかしい」などと批判されるカトリックはフェミからは「女性崇拝文化を破壊し」などと言われる始末、ええ?どっちなんだ?はっきりしろ。魔女狩りの歴史もそれと直結しているわけではない。魔女狩りはまったく文脈が違うし「男の魔女」も迫害された。つまり「ウイッチ」とは魔術を扱うものの総称で、男女ともにいる。この魔術師狩りはカトリックプロテスタント双方がやっていてヨーロッパ全土が宗教改革で荒れていたその中で起きたヒステリー現象と言えるんだが。例えば「セーラムの魔女」はホーソンの「緋文字」を紹介するまでもなく清教徒達の集団ヒステリーの結果である。社会が不安な時というのはスケープゴートが発生する。911テロの時はイスラムの人々が大変な目に遭った。


実はカトリックに於ける人気の聖人は聖女の方が多い。どこが女性を低く貶めただか、ダン・ブラウン君に小一時間・・・・神が「父なる神」ってのが問題なのか?ユダヤの伝統を受け継いだそれは確かに表象として父の属格を持つが、それにご不満だったマザコンのヘレニズム文化の人々、ローマ人達が聖母崇敬を導入した。それを前述の通り「女神を拝んでいる」と、プロテスタントから批判されているというのに。


しかしである。そもそも社会全体が父権制であるのは、ヨーロッパだけでなくアジアもアフリカもどこもかしこもそうである。「神様に女性がいる」なんておためごかしで騙されないぞ。長い時代、女性はタダの男性の所有物だったり、男は酒かっくらってるだけで女が働く社会ってどこでもあるよな。田舎の葬式に出席するとよく判る。(少子化だって結局その流れ。)カトリック史では、女性の修道女が権威を持っていたり(中には司教の肩書きを持った女子修道院長もいた)、教皇すら動かしたり、優れた神学者がいたり、社会進出出来ないような社会価値の中で、聖域にはいれば男と伍して働く事すら可能だった。かといって世俗における地位が平等だったかというと、それは近代まで待たざるを得ない。日本だってそれは同じである。財産権の問題、社会責任の問題は世界のどの文化でも女性には不平等であった。


因みにカトリックの多いラテンの国は母ちゃんが強いイメージがあるなぁ。マザコンも多いし女性が元気である。そして家族単位を旨とするので、社会が子供を大切にする。しかしである、自立した女性には冷たいかもしれない。あと私のような子無しの独身女性は肩身が狭いかも。(日本もそうだけどね。「負け犬」とか言われるしな。)だからカトリックアメリカ型のフェミには人気ないのは仕方がないかもしれない。働く女性は修道女なら尊敬されるんだけどね。でも実は世俗で目立って働く女性も多いよ。曾野綾子さんとか、緒方貞子さんとか。無名な人々でも福祉関係等で働く女性は多い。知合いのおばさん達は皆なにかそういう仕事なり活動なりをしていた。とはいえこれはカトリックだけでなくキリスト教文化の特性ではあるよね。


話を再び少子化に戻すが、
問題はやはりどう考えても経済の問題

・餓鬼を食い物にする日本の経済。お子様アイテムがこんなに市場に溢れ帰っている状態はお子様文化に金がかかるということでもある。昔のように無しで工夫して遊べなんてことをしていたら孤立する。ゲーム機買えとか言ってんじゃねーよ。外で遊べ。ということを子供にすると、子供は他所の家に上がり込んでゲームをする。疎まれる。仲間はずれにされる。
ダサいお下がりを着せるわけにいかないような、アンファン文化があったりする。餓鬼の癖に化粧品とか持つなよ。モー娘。みたいなのが余計に拍車をかけている。子供は「おされに無縁な」と言われるオタクや腐女子に育てた方が経済的かも。あ、でも漫画買えとかDVD買えとかゲーム買えとか、パソコン買えとかそういう方向にいくか。ダメだな。


・適齢期の友人♂は彼女がいるけど給料が安く、聞けば。・゚・(ノД`)・゚・。な収入。だから結婚して子供を作るってことが不可能なんで・・と述懐する。子供どころか奥さんを養うだけの金もない。彼女も不安で踏み出せない。共働きでいずれ・・とはいえ育児にとられる時間をどっちかが削らねばならないが、そうなると食えない。というジレンマで、未だ結婚にすら到らない。


・そしてやはり女性の負担感。
友達に聞くと昨今の幼稚園やら小学校は母親に対する要求が多過ぎである。何を造れとか、アレを持たせてやってくださいとか、余計なお世話である。父兄会のわけわかめな活動も異常に多い気がする。うちの親はわりと子供には手をかける方だったが、学校や幼稚園から要求されたのではなく自主的にやっていただけだ。働きはじめてからはそれは出来なくなったが、それで困ったことはない。弁当を作れだの、ずた袋を造れだの、××会があるからそれの準備にこれを造れだの、そういう大変な要求が母親に集中する。父親ではなくて、母親への要求は異常だと思った。学校は家庭に甘えるんじゃねぇ。自立しろ。


・島では子供は皆で育てる的な風潮がまだ残っていて、子供はかわいがられる。そして子供社会自体にも、年長の子が下の子の面倒をみるという関係性がある。そんな島でも少子化が深刻である。何故なら、先ずは若い人が皆働き口がなく都会に出てしまうから。上級の学校(大学や専門学校)がないので皆島を出るしかない。また島の経済は下流なもんで、はじめに言ったような経済の問題を抱えている若い人が多いのがそれに拍車をかける。いくら社会が子供に寛容でもそれだけではダメだったりするようだ。


「母」という価値が下がっている。これは「父」もそうだけどとにかく「家族単位」の価値自体がエートスとして低い。ファミリー単位でという変な建前の蔭には、ファミリーへの侮蔑がある気がする。夫婦単位というのが日本では重要でないように。表面的な経済では推奨されていても、実質にはそれらが理想とはなっていない気がするんだが。どうだろうか。
「子供の文化」「若者文化」が最先端であって、家族の文化、夫婦の文化というのは建前にしか存在していないように思える。このあたり、あのラテンの国々の家族や夫婦の在りようとの差はなんだろうと思う。もっとも家族単位が過ぎてバカンスを一族で過ごさねばならない文化は日本人には辛いとも聞く。友人は離婚してしまった。日本人の方が夫婦間も家族間も淡泊なのかも。・


とにかく、あらゆることが複合的に少子化へと向わせていると思う。

◆◆
で、カトリックといえば子沢山。ギャグネタにすらなる。
だから上記のぶろぐの文脈で、カトリック教会が批判的に取り上げられるのって、構造的に「なんでもカトリック教会に押し付けとけ。終り」という思考停止にしか過ぎないよ。矛盾してるのをなんとかしてくださいです。

→ブログ主さんが捕捉してくださったです。有り難うございます。
→因みにブログ主のmichikaifuさんはなんと筋金の入ったカトリックの方なので身内批判だったというオチ付き。笑)

しかしなんと申しますか・・・(ここからは今回取り上げたブログから離れ、一般的によく見られる批判に対してですが)カトリックっていつも批判にさらされ、嫌われているのが悲しいです。どんなに努力しても中世のイメージで観られたりする。あんたそりゃ何百年前の話よ?その時代、日本の状況はどうだったの?非カトリック国はどうだったの?他の宗教の国はどうだったの??と問いたいことが多いのですね。カトリックだけが男尊女卑を産んだわけではない。中国なんかどうよ?現代でも女の子は産まれると殺されるんだぞ。例に出す前に「あなたはカトリックなのか?」と聞きたくなることもある。自分と関わっている文化の歴史状況を棚に挙げ、自分と関係ない団体を批判するという一方的な手法はわたくしは好かない。