インドネシア徒然

インドネシア地震の規模はマグニチュード6.2とさほど大きくないのに被害は非常に大きい。こうした傾向は他の国々でもそうだが日本の耐震構造への五月蝿さというのは大変に重要なことなのだということがよく判る。阪神淡路大震災の規模はマグニチュード7.3だった。
インドネシアの建築工法はいたって簡単で鉄筋もなしに煉瓦やブロックを積んでいくだけ。何階建てだろうがそんな感じ。床もびっくりするほど薄い。バリ島の建築ラッシュの時代にそういうトンでも建築を沢山見かけたので、この島はアグン山という火山すらあるのに大丈夫なんだろうか?と首をひねったことがある。中国なんかでも土木学会の人と旅した時に、「ありゃ構造計算やばいんじゃないか?」という建物を沢山見かけ、学会の人が苦笑していた。中国は日本程は地震がないんだろうが、大丈夫かな?と言っていた。
姉歯ヒューザーの事件で耐震構造を採択することは大変に経費がかかることがよく判ったがやはり災害の多くは人災である。人の命をどれだけ守るか?完全は無理だとしてもある程度まで可能ならほどこすしかないわけだが。
しかしインドネシアの庶民はそんな余裕もない。ただコンクリで固めただけの鉄筋もないような家に住んでいる。そういえばジョグジャの学生につれていかれた彼の家は竹の家だった。家の全体をみたわけではないのでよくは覚えていないが、竹で編んだような壁の家だったな。却って地震には強いかもしれない。


今回、ジョグジャカルタの町で多くの市民がパニックに陥ったらしい。未だ例の津波のトラウマが国民の間に影を落としている。彼らは山に向って必死に逃げたらしい。海から20キロもあるこの街の人々はそれでも安全ではないと思ったらしい。確かにあのアチェの茫漠たる津波のツメ跡は衝撃であった。荒涼とした大地が広がるだけの風景と化した街を多くの人々が脳裏に描いたのは無理もない。

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昨日、インドネシアの作家、プラムディア・アナンタ・トゥール氏の書を紹介させてもらったが、インドネシアという国は未だ近代化の途上にある。彼の書がスハルト政権下で発禁となった事情はオランダ無き後の資本家としての一部の人間がインドネシアを掌握しているという、植民地下の構造がなんら克服されていないことを大衆に知らせたくなかったからだろう。
スハルト一族の屋敷は広大でジョグジャカルタにも確かあったと記憶する。スハルトジョグジャカルタ出身であった。
スハルトインドネシア内の華僑と手を組み、華人達は多くの市場を独占していた。スハルト失脚とその混乱の中で多くの華人達が攻撃されたのは、結局、インドネシアの人民が植民地時代となんら変わりないような生活を強いられている故の反動だった。華人達はスハルトが危ういとなるといち早く資本を海外に逃がした。華人達の儲けは決してインドネシア人民に還元されることはなかった。
以下にインドネシアの企業事情が出ている。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page048.html#527
プラムディアが描いた植民地時代となんら代わりのない世界をスハルトが構築していたともいえる。
近代啓蒙思想を学んだものが結局、支配する側に回った時に人民を搾取していく。そしてスハルトは失脚し新たな時代を迎えたインドネシアはしかし未だ混迷している、近代は未だ実現されていない、途上にあるのだと想像する。
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最近、pataさんがヘーゲル先生の法哲学講義をまとめ終えた。

http://pata.air-nifty.com/pata/2006/05/20_ec15.html
■『法哲学講義』読書日記#20


ヘーゲル先生は学生相手にすごい過激なことばかり言っている。トンでもない親父だ。
しかし国家を形成する「市民」という考え方は明白であち、国民倫理というか、とにかく社会共同体を形成するうえでの自覚と共同体への責任ということへの徹底した考え方はなかなか為になる。寧ろ敢て過激だからこそ同意出来る部分も多い。

市民生活では、自然もまた誰かの所有物であるから《貧者は漁も狩りもできず、果実を摘むこともできません》。さらに貧乏人は司法活動からも事実上、外されると警告も与えます。もちろん福祉は当時もありました。しかし《無料施療医や官選弁護人がいないわけではないが、そうした人びとがどんな心根かは、出たとこ勝負です》と語り倒します。さらに、《貧乏人は宗教の慰めにもあずかれない。ぼろを着て教会には行けないが、身につけているものはそれしかなく、やむをえず、早朝の説教や平日のミサが設定されています。最後にいえば、死の床にある人を慰める聖職者にしても貧乏人のあばら屋よりも金持ちの邸宅に行くのを好みます》。そこまで大学の授業で云うか…という独走態勢で学生を振り切る印象。なんか貧乏していたときに恨みでもあるのかな…。

 この授業を行った日は虫の居所が悪かったのかヘーゲルの怒りは労働者にも向けられます。

 《機械的労働のくりかえしのなかで、大多数の人間の愚昧化が進みます》なんて云っちゃいけないことまで語った後、働かない賤民のダメさについて延々と語るわけ。《かれは、生計の道を見つける権利が自分にあると知っているから、貧困は不法であり、権利への侮辱であると考えて、当然のごとく、不満をつのらせ、その不満が正義の形をとります》そして《偶然の運を当てにするしかない人びとは、たとえば、ナポリの乞食のように、お調子ものの労働ぎらいとなる》。怠け心と権利意識が賤民を生み、彼らは独善の極へと至り《市民社会には自分を扶養する義務があると申し立てます。賤民と独善の結びつきは至るところで見られます》とまで書いて、スコットランドにおいては矯正のために《人びとのあいだを乞食してまわらせるのが有効であると、と実証されている》というんですな…。

上記の前半はまさしく植民地に於けるインドネシア人の立場であり、後半は現代のアフリカの問題に通じますね。しかし第三世界だけでなく、ヘーゲルせんせのこの講義を読んでいると、未だ「近代」はどこにも完成されていないんではないか?などと思ってしまいます。