死の床の伴

相変わらず平野啓一郎の『葬送』
ショパンが死の床に付き、姉や母に会うことを切望している光景。また未だ忘れ得ぬ恋人サンド夫人と再会をかなえてあげた方がいいのか?と悩む友人達・・・という光景。
書き上げた楽譜が意外と少ない。39歳という年齢で、その作家の全仕事が多いのか少ないのか判らないけど、譜面だけを集めれば少なく見えるのかもしれない。音楽家は時間と共に生きるので彼自身が存在することによって成り立つ芸術なのだから、スコアはその「残滓」に過ぎない。それでもそこに生きた証しがある。譜面に刻みつけられた音楽家の生の片鱗がそこにある。
ところで死ぬ前に会いたい人って誰なんだろうなぁ?なんとなく読みながら思ってしまった。少なくともショパンみたいに「兄弟姉妹に会いたい」などとは思わない気がする。もっとも故郷離れ遠く異郷の地で死ぬショパンにとって親兄弟は自分の懐かしくも幸せな過去の光景そのものだったりするのだろうから、余計に会いたいんだろうが。
しかし翻って我が身を覚えれば両親や祖母は、まぁ通常は自分の方が生き残ってしまう率のほうが高いわけで。自分が先に死ぬなら会いたいと願うかもしれないが、故郷のなにかとかそういう感覚はないかも。
子供なんかがいればその子に会いたいと思うんだろうけど、そういう存在は望めないんで、今の処思いあたる存在というと島犬カナぐらいか。我ながらかなりわびしい環境だな。をい。
まぁ、恋人もいないし、或いはそれに相当する信頼している他者というと、こっちが一方的に会いたいと思っても来てくれるかどうかの間柄の存在しかいないや。逆に「あなたに会いたい」などと切望してくれる人もいないってのもどうなんだろうね。
どーも、ショパンの死の床の光景から、己のわびしさがつのってしまったよ。とほほ。
島犬カナは今日はお母さんとこに行っちゃって帰ってこないし。

・・・・・・・・・・・締切が一段落付いたもんで、余計なことを考える余裕が出来たらしいな。よくない傾向だ。