愛国心

隣の島に行って気付いたことだが、島の人は自分の島を好きである。隣の島の人は自分の島がいかにいい処か自慢していた。うちの島の人も同じである。島が宇宙なので、自分の郷里たる島は大切であるのは当然で、それは身体からの延長、家族の延長、育ってきた習慣、慣習への郷愁、そういう身体性を伴う距離感から生じる郷里への精神性なんだろう。彼らの島を愛する気持がその島の過疎化を食い止めている。なんとか島をよくしよう、愛してもらおうと努力している。そういう精神性に出会うとこちらも少し嬉しくなる。「日本という国を愛する」というのもそういう身体性から生じる精神性であるんだろうね。
最近「愛国心」を憲法に持ち込むがどうしたとかそんな話がある。実は、「法」というのものにそういうメンタルなものを持ち込むべきものなのか?いささか疑問である。それは上記のような島の人々の感覚に見られるようなものだろうが、それは日常に於いて、生活のなかで養われるモノであり、精神性を法で縛るというのはどうか?などと思う。同じことが日の丸君が代の問題で起きている。東京都が条例でどうたらとか、変な話だ。
「法」で明解にすべきものは、「日本」という国家を担うモノが法が定める「国民」それぞれであること以上は踏み込めないだろう。日の丸君が代も法で定めることが出来るのはそれが国旗であり国歌である以上のことは踏み込めないだろう。
しかし、日本という国家への市民としての責務や、日の丸君が代に代表されるようなイデオロギー論争を見ていると伝統や慣習といったものへの否定的感情、肯定的感情がそれに絡んでややこしいことになっている。
伝統や慣習を懐かしみ大切にする精神性と、「法」は切り離さないとややこしいことになると思う。
そもそも「日本の伝統は〜〜」というものをいわゆる「日本」という国家と結びつくかというと、私の場合、個人的な内面を見つめれば一致しない。日本の伝統といわれるもののなかにキリスト教はないし、価値もずれがある。「日本の伝統的なもの」とされるものは私の中では「他者」的価値だったりするんだが、しかし「日本」という国の市民であることの自覚として、国旗や国歌には敬意を払うし、「憲法9条改正反対論は不安だ」などと判断するといった按配ではある。
右も左も法に精神性を持ち込み過ぎてるんじゃないのか?と思ったりする。
そういうわけで、私はどうも「愛国心」と最近いわれるものには距離をおきたくなってしまう。普通に市民として「日本」を考えるんではあるが。
ただ、日本という国の形成は独自の特色があり、それは既に伝統の領域に入っている部分が多く、単純に「法」によってとわりきれない個所がある。天皇制の問題、靖国参拝等、これにおいては難しい。それを無くせば一つの「伝統」が死ぬ。うまく落とし所が見つかるといいとは思うもんだが。
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そもそも「愛国心」が何故、法で取り沙汰されたのかというと、いわば「自虐史観」とか「祖国」を語ることへの極端な拒絶、そういった精神性が一部の人々の間で危機感となって現れたからなんだろう。それは島の人が自分の島に対しシニカルに語ったり、家族と距離をおくようなそんな感じにも近い。一種のニヒリズム的な、また日の丸君が代に見られるような極端な拒絶反応、イデオロギーを通じて物事を見過ぎるような、こういったものにも一種の不自然さを感じてはいた。或いは一種の形を変えた自己否定。自傷する若者たちのあの不安定な精神にも通じるような感じ。過去の汚点を自らのうちに取り込むことへの拒絶。過去を切り離すことによってしか克服出来ないのか?などといささか疑問を持ったりはする。
しかしだからといって国家が「国を愛する」というメンタルなものを法で規定するのは危険ではある。というのもそれは語らないことで伝えていくべきものであるというか、言葉、ましてや「法」というのは穏やかに存在するものを原理化してしまう危険性が或る。
それは例えばカトリックの神学史などを見ても判るように。信仰、或いは神という不可知なものを探る時、神学論争が起きる。言語化する時点で教理は一種、原理化する。異端、正統を分けていく。それでも或る程度の規定やルールは必要だから最低限のコンセンサスは採らざるを得ないとはいえ、やはり神秘の領域を言語化することは、言語化するということ自体のその限界を知ったうえで行わないと不味いなどと思う。