復活祭

皆さまはキリスト教ってのがなんだかよく判らないままに、イースターって単語はご存知だったりすると思うが、世の中のキリスト教は今日は復活祭(イースター)だったんだよ。卵配りしたりね、色々やる。ロシアの卵げいじつなんかもう伝統工芸品の域に達していたりするのよ。(因みに東方教会ユリウス暦なんで復活大祭は来週なのよ)
そういう最大のお祭り。ようは単なる宗教行事なわけだが、もうこの復活祭の前夜というか夜中のミサなんか荘厳且つ壮麗にお祝いしたりしてきたのですね。キリスト教的にはイエスの復活を記念する日で、バーチャルにイエス復活を体験してみようぜ的なミサ演出〔典礼)が為されるのでございます。
「光の祭儀」などと申しまして、金曜日に処刑されたイエスを偲んで真っ暗な中で典礼は始まる〔ことに一応なっているが、都合で電気ともしっぱなしの場合もある)真っ暗な聖堂へ司祭がでっかい「復活の蝋燭」と共に入堂し、先誦する助祭もしくは司祭が「キリストの光〜〜〜〜」と申しますと「神に感謝〜〜」信徒が呼応し、交互に応答しながら厳かに祭壇へと歩む。その復活蝋燭の光が信徒一人ひとりが持つ蝋燭へと炎が移り、聖堂内が火の光に満ちる様はなかなかに感動的である。「復活徹夜祭」などと言って本来は真夜中に行われていた。
次に「復活讃歌」と呼ばれる長い祈り(節付き)がありこれは本来助祭が行う。朗々たる節回しでなかなか感動的な個所であるよ。
次に「言葉の祭儀」と呼ばれる聖書朗読が行われる。これが長い。創世記とかイザヤ書とかをだらくさと読み上げながら祈りの言葉を挿入し、とにかく出エジプト記ははずさないでね。あとそれに最低二つは加えて読んでね。という感じで最大旧約からは7つの個所、それにパウロ書簡があったりするんだが、全部読むトコあるのかな?
まぁ、とにかく福音朗読まで済むと、今度は洗礼式なんかがあって、その後ミサへと移行する。いつもより前振りの長いミサという按配。音楽なども久しぶりに伴奏可能となり、聖歌隊の腕の見せ所となるわけだ。
カトリックに興味のある人なんかこのミサに来るといいよな、荘厳なお且つ壮麗に執り行われるべきミサであるはずなんだが・・・・・・・・・・
・・・・・・・島のミサは違っていた。なんせ信徒数が少ない。大人が20人ほどしかおらん。日常なんて信徒が三人くらいいれば上等なんじゃないのか?と思うほど少ない。しかしである、実はお子様が異常に多い。農村のお約束フィリピン人の妻のお陰である。フィリピン人は子沢山を旨とする。なもんで兄弟が異常に多い。かくしてざっと見てもお子様が20人以上いる。こういう教会でのミサがどういうものかというと「ミサの音楽はうんたら」とか「復活祭にこの音曲がどうたら」、「美学的な典礼がうんたら」「ラテン語曲が、グレゴリアンチャントが・・」・・・などどうでもいい。人が集まりさえすれば御の字である。聖歌隊などない。オルガン奏者などいない。歌の個所は皆音がはずれまくっている。日本語が判らんヤツもいる。子供は飽きて走り回る。嬌声をあげる。祭壇前に寝転がり、一時としてじっとしておらん。典礼破壊マシンが20人もいりゃ、もうミサどころではない。お子様はミサよりもミサ終了後のパーティが愉しみなのだ。
それでも「聖堂に人がいる!!!!」が、涙が出るほど嬉しいのだよ。
とにかくじっと祈る空間ではなかった。神父も「いやぁお子様が多いんで、しょうがないのではしょったよ」と典礼もすざまじいスピードで終了した。そういえば子供の寝る時間過ぎているもんなぁ。はるばる海を越えて訪れたんだが、「ミサで祈る」どころか足の悪い祖母のトイレの世話とおガキ様の相手で時が過ぎ、なんとなく帰ってくるだけである。典礼奉仕の為に疲れるとかそういうレベルですらない。ただもうひたすらマルタな状態。お陰でミサ前の告解すら出来ず、正直祈りに関しては不完全燃焼だったり。なんというかその点では母教会は恵まれていたんだな。東京ってのは教会が沢山あって選べるもんなぁ。ぶつぶつ文句垂れていられる贅沢が出来るってもんだ。島では教会に行けないか、或いは行ったらアトホームなミサが待っているかどちらかであるよ。
しかし、まぁこういうアトホームなミサもいいもんではある。「静かに祈りたい」とかそういう個人的なことなど諦めれば、楽しいもんであるよ。復活祭を楽しく過ごすという別な歓びを発見して家に帰ってきたよ。

しかし。バリアフリーじゃないトコが大杉。車椅子の人に対してまだまだ日本は厳しいよね。正直疲れた。そっちの方は激しくむかつく今日この頃である。