聖金曜日

今日は聖金曜日である。大斎の日と言って断食したりする。といっても一食抜きとかそんな感じ。ちょいと空腹状態でいる日である。空腹状態というのは実は頭が冴える。まぁ「祈り」という行為において脳の働きを活性化させるのは重要、イエスは40日間荒野で食を断つような生活をしていたようだ。祈りの生活に入る為に食事制限が或るのは仏教の禅といい、何かあるんでしょうね。
そういうわけで、現在、空腹である。パンでも食べたいけど、今、食べて寝ると太るしな。
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で、本日は受難の日。聖書のクライマックスであるイエスの十字架刑の日である。こりゃかなりドラマティーコな展開で、象徴的に色々なモチーフとして使われることもあるやね。「十字架上の孤独な死」惨めったらしくて、弟子達にすら見捨てられ、嘲笑され、渇き、神に祈る「何故、お見捨てになられたか?」嫌な死に方である。
そこに寄り添うのは、母マリアとマグダラといった女性達。ピエタ像が心を打つのはその母の嘆きゆえである。トンでもない死に方をした息子への嘆き。子を失った悲しみと、その子が苦しみと孤独の挙げ句に死ぬその現実を前に。張り裂けそうな思いはいかばかりかと、まぁ、思っちゃったりするのですね。それは普遍に人々に訪れる親しき人との別れの光景でもある。だからここでの悲しみの光景は日常に存在する悲しみでもある。その共通する普遍的な痛みの共有があるというのは、判りやすいツールではあるなぁ。
その共有性ゆえに我々は孤独ではない。あなたの痛みは私は知っている。それは体験したことのある痛みなのだと、我々も思うし、また反対に自らの痛みを知る者がいるということでもある。それは既に孤独ではない。その共有性ゆえに「救い」へと導かれるのかも。
まぁ少なくとも、わたしゃそういう風に慰められましたよ。
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本日の典礼は「十字架の道行き」などを午後3時頃に各教会でやったりしているようです。まぁ私は参加出来ないんでつまんないですけどね。これフランシスコ会がはじめたっていうし。ちょっと自分的に重要。それと「十字架称賛」という典礼が行われたりする。ミサとは違うのでちょっと変わっている。目撃したいけどこちらもまぁ出れません。遠過ぎて。泣)
明日は復活徹夜祭には行きますよ。徹夜ではなく前夜祭という感じですね。ここ2年ほど復活祭の式にはあずかれなかったのでかなり嬉しいかも。