ギター禁止令

某所で「カトリック新聞に、教皇がギターを禁止にするらしいという話が出ていた」という情報があった。あの赤新聞を読んでいないんで真偽のほどは判らないのだが。とにかくそこでミサ音楽について議論していた。音楽は感覚に訴えるものだけに個人個人の感性が違い、色々な意見があるものだが、この手の議論は熱くなる人が多い。美術に関してはあまりそこまでの熱い議論が起きない。関心がないんだろう。

昨日コメント欄で左翼運動家の破壊の罪を書いたが、資本主義による均質化、商業主義的な文化破壊もかなり酷い。ラッツィンガー枢機卿べね16)が『典礼の精神』で「ポップミュージックはカルト」だと書いていたが、その手のいわゆる商業主義的なポップミュージックなものが教会に入り込んできている。「フォークミュージックを唄うミサ」というのはよく批判の対象になるが、アメリカンなフォーク好きな世代はノスタルジーに浸れてよいのだろうが、それを共有しない世代にとってはしらけるだけである。そもそも、教会ってそういう場なのか?俗社会のコンサートホールじゃないぞ。という疑問符は生じる。だから「ギター等を禁止する!」というラッツィの気持も分らなくもないが。

ただ南米のごときフォークロアミュージックが地に根差した土地などの祈りとしての音楽が、ギター演奏を伴うようなものだったりする文化だとどうなんだろうか?土地の伝統と教会とが永らく融合してきた社会では、欧州の伝統的キリスト教音楽っていうのは西洋のものに過ぎずよそよそしく押しつけがましく思えるかもしれない。あれは商業的ポップミュージックでもない側面がある。もっとも南米に行ったことがないので判らんが、南米のフォークロアな音楽は大衆に根差しきった音で彼らの祈りそのものと聞こえるし。それがミサに応用された場合どうなのか?

しかしまぁ、左翼活動家ってアメリカンフォーク好きだったよなぁ。私はガキの頃から嫌いだったが。ああいう軟弱なのはどうも。もっともフォークというのはアメリカの民族主義的音楽なわけで。左翼が批判する権力構造もアメリカ産なら、左翼が好むフォークやその周辺思想もアメリカ産。あほか?どっちもアメリカまんせーというこっちゃ。などと思ってしまうよ。ま、それが現代、その世代が教会を動かすようになり、件の赤軍派女性をもちあげるような政治センスが、教会の典礼芸術まで破壊してくれたわけだ。日本の教会音楽にみられるような素人芸が称賛されるのはそれが「大衆文化」であるからなのだろう。洗練されたものは破壊され、残った瓦礫に素人の文化が創られる。それは平野啓一郎が描く「葬送」における市民が創りあげたバリケードの醜さについての述懐に通じる。ドラクロワはその醜いオブジェを諦めをもって見る。「伝統」の象徴としての「芸術」はそのように破壊され、殺されるという按配である。

マーケッティングによって成立する大量生産型の資本主義社会の文化も大衆の価値を投影するし、共産主義革命による文化も素人臭い幼児性を是とする。どちらも芸術家からすると悪夢世界であり、芸術家がアナーキストになるのが多いのも無理はないな。本人が大衆(プロレタリアート)であるが故に、自覚しながらも大衆の価値を認めるわけにはいかない矛盾した立場において、政治思想(イデオロギー)というものは組み出来ない要素があり、もっとも距離を置きたくなる存在でもある。

ヴィリエ・ド・リラダンが中途半端なブルジョア知識階級を嫌い、貴族と本当の貧者を愛し、貧困のうちに死んだのは象徴的だ。また藤田嗣治が彼が戦時中描いた「戦争画」によって戦後の日本のマスコミや画壇から戦犯呼ばわりされたこと。それによって日本という国に裏切られ、日本国籍を棄てるしかなかった慟哭は寂し過ぎる。それはドラクロワの自らの作品である「大衆を率いる自由の女神」に対する複雑な思いとかぶる。