ロマン主義の時代

仕事の合間にぼちぼちと書店に届いた文庫を読んでいる。
これね↓

葬送〈第1部〉

葬送〈第1部〉

平野啓一郎というと、「日蝕」で芥川賞を取り、それが元で何故か佐藤亜紀をしてS社とが確執するに到った問題の御仁ではある。いや平野さんは件のトラブルにはまったく関係ないんだけどね。
そのトラブルの元の本はこれね↓

鏡の影

鏡の影

日蝕 (新潮文庫)

日蝕 (新潮文庫)

中世オタの私としては、時代背景も違うこれらにナニが共通なのかよく判らないし、せいぜいが主人公に付帯された賢者の石への探求めいた要素ぐらいなもん。まぁその設定が作品の中心となるわけで重要なのは分るけど。同じシチュエーションでも料理人が違うとこうも違うという面白味を却って感じなくもない。だとすると時期的にこれを絶版にした出版社はそういう視点に欠けていたとはいえるなぁ。
で、佐藤亜紀の「鏡の影」はご本人の個性がそのまま反映しているかのように癖がありまくりで、粗削ではあるがなんとも皮肉な視点が面白い。ほんとに佐藤亜紀は意地悪である。宗教改革期をこのようにカリカチュアライズさせるとは。・・・・などといたく感心したものであった。転じて平野啓一郎の「日蝕」は澁澤龍彦を優等生的に小説にしたという印象で表象的な完成度は高いが琴線には響かずといった感想。幻想的な中世の光景は絵にはなる。佐藤亜紀に比べると遙かにビジュアル的で美しいのではあるが、透明なガラスケースに収められたような中世は、ロマン主義者達が眺める中世なんじゃないか?などと思った次第。

・・・そういうわけで少々、平野氏には距離をおいてはいたものの、ドラクロワを主人公に据えた小説ってんでつい気になり、本屋に注文しておいたのがやっと届いた。

のっけからショパンのコンサート風景の細かい描写。しつこいぐらい。ショパンの音楽を知らない私にとってはそこはすっ飛ばしたくなるも、コンサートにおける「拍手」の問題を竹下節子さんがご自身のサイトで云々していたのを思い出し、少し斜にかまえながらニヤニヤして読んだよ。
しかし、ショパンドラクロワジョルジュ・サンドと言った人間達がまえふりなしに登場して、自分のおかれた境遇に翻弄されている日常が記録のように書かれているので、誰に感情移入してよいやら戸惑う。とにかくまだ読み進めていないのでなんとも言えないが、傍観者的視点は相変わらずでしかし、このくそ熱苦しいロマン主義の時代の人間を描くには面白いスタンスなので期待出来そうだ。

だが、我ながらロマン主義の時代は空白である。フランスのリシュリューの時代、2月革命。そういった時代はユゴーの「レ・ミゼラブル」のドラマチックなアレぐらいの認識しかなく、ドラクロアの絵も正直、暗い。暑い。重い。と好きではないし、ショパンは甘い、軽い、虚弱そうで嫌だ。という偏見しかもっておらぬ。つまりまぁ、絵画にしても音楽にしてもロマン主義芸術とはまともに向ったことがないのである。
そういうわけで予備知識ゼロで読み進めているんだが、ジョルジュ・サンドはいたく気になる存在である。なんせファンの方には申し訳ないが、私の内部においてはショパンなんかどーでもいいぐらいの人間だったので彼女のことはショパン絡みではまったく知らなかった。ネットで調べるとショパンの愛人の話は有名だとあったので恥ずかしい。フェミで、過激思想で、シャネルみたいに奔放な女流作家ということしか知らなかったのであるよ。

・・・・・というわけで中世から一気にロマン主義な時代に浸っています。
でもさぁ。ドラクロワの絵ってくどいよね?