聖人伝

芸術家にとって先人達というのは一種の聖人だったりする。美に仕えた先人達のその生き様というのを知るのが面白い。弟子は師匠の背中を見て育つなどというが、正も負も含め、その美へ生涯をささげた彼らがどのように生きたかっていう話を知るのはある意味勉強にもなるし、なにより好きだったりする。ジョルジョ・ヴァザーリルネッサンス期の芸術家について、同時代的に生きていた人、記憶している人の証言を丹念に集めてくれたお陰で、ルネッサンス期の画家達の素顔を知ることが可能になったのはかなり幸いだったり。
とにかく、お馬鹿が多い。ヴァザーリはそれぞれの画家や彫刻家の偉大な印象をつけようと様々な修辞を施して書いてはいるが、行動がかなりお馬鹿な作家が多い。ただの引き篭もり(それも誰も来れないように梯子をはずしてしまうとか徹底的である)とか、極端な面倒くさがりや(風呂に入らない、飯を作るのが面倒くさいので卵を大量に茹でて食っていた)とか、仕事そっちのけで好きなことしかしていない奴(リッピの場合は女狂いで缶詰めになってもそこから脱出する)とか、もう我々の日常によくいる隣人達とたいして代わりがない。いや寧ろ現代人のほうが常識的である。まぁイラストレーターの締切破り業とか話を聞いてるとすごい人がいたりするけど。音楽雑誌の表紙を描いていたY・K氏が行方不明ってのはよく聞いた。家の中にいても電話に出ないとか、部屋真っ暗にして布団かぶっていたとか。
これらの芸術の聖人達を記したヴァザーリはというとかなりまともな人のようだ。まとも過ぎて作品がつまらない。常識的でアカデミックなそれなりの作品を作るが、なにかヘンテコさが足りないようである。彼自身おそらくそういう限界に気付くだけの常識も持ち合わせていたのだろう。あの芸術家列伝を書いたまなざしは、そうした自分自身の限界を知っていたものの視点でもあり、それ故にヴァザーリもまた偉大だなと。感心してしまうのであるが。
芸術家の生涯は全然品行方正じゃあない。当然、教会官製の聖人伝とは大違いである。教会の聖人伝がつまらんのは品行方正過ぎてその人なりがまったく見えてこないからなんだが、目的が違うんでしょうがないだろう。芸術家の中には犯罪者もいたりする。カラヴァッジオは殺人の罪で逃げ回っていたとか。チェッリーニの俺様自伝を読んでいても「こいつは信用はしない方がいいな」などと思ってしまう。
でも、信仰という作業をする人と、美を求めて作業する人というのは共通点があるとは思う。非常識であることは確かだ。特に聖フランシスコは非常識の塊だと思う。筋が通っていても社会共同体の価値からははずれていたりするよなぁ。
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昨日、ミケランジェロのことを書いたが、しかしあの書簡。いつも不機嫌そうで、偉そうで、大変そうで。はいはいはいはいお疲れ様。としかいいようがないが、彫刻家が材料を入手することの大変さってのは画家と違う悩みだなぁ。あとパトロンとの交渉ってのは大変そうだ。マネージャーが欲しくなるよなぁ。
ただ、彼はユリウス2世とはほんとうはいい関係だったんだろうとは思う。あのとんでも非常識なルネッサンス教皇に怒りながらも彼の注文の作品を作り続けていくのだが、そこに産まれた作品が一級であったのは誰もが認める通りで、よいパトロンに巡り合えた作家というのは幸せである。それは単に保護するだけではなく叱責したり、威嚇したり、かけ引きがあるわけなのだが最終的に才能を認めているパトロン側の信頼も重要だったり。
なもんでブラマンテ(馬鹿)の奸計でユリウス2世から信頼を失ったと思った時のミケランジェロってのはかなり気の毒であった。後にユリウス2世から「ナンで作品ほったらかして逃げたんだ」などと怒られた時に「貴方が信頼してくれなかったからだ」などと答えた逸話ってのは、二人の或る意味いい関係を証明していたのだと言える。ミケランジェロにとってユリウスはパトロンである前に父的存在であったのかもしれない。ユリウス2世だからこそ彫刻家であるミケランジェロにあの壁画を描かせることが出来たともいえる。