島の伝統の守り主

午前中、シスターと島の方と一緒に民俗村の菊千代さんに会いに行く。菊さん一家は島の歴史の記録者で、伝統の大切さを子供たちに伝えるべく頑張っておられる。方言の辞書を作成したり、芭蕉布の技術を伝えたり、昭和30年以前までの島の光景の再現、様々な生活道具を集め、使い方を再現したりしておられる。
こうした記録の保持者というのは貴重だと思う。
先祖代々引き継がれてきた精神性を子供たちにも伝えていきたいという。伝統はたやすく壊れる。それは時代の流れだから仕方がないのかもしれないけど、あまりにも変化の激しい時代の中で生きていると、こういう立ち止まるような視点に安らぎを感じたりします。
民俗村の案内↓
http://www.churashima.net/shima/yoron/minzokumura/

菊さん(千代さんの息子さん)と話していたとき、「自分達は行政的な県という感覚もない。琉球弧の一つではあるが、島という一つの世界の中にいるのだという感覚が強い」とおっしゃっておりました。島にいるとその気持がよく判る。普通に生活しているとこの島の世界が全てである。それ以外を意識することがなくなる。否定するとかそういうのではなく、単に本当に日常の生活においては接触がないからなんだが。お客さんはあちこちからいらっしゃるし、わたしのような圏外からの移住者もいる。この島の人は外に対する抵抗もない。だから中で閉じているわけではなく開かれてはいるわけなのだが、なんというか「ナニ県」とかいう意識がすっ飛ぶ。島は島なのだ。その宇宙で完結するのだ。
日本という島に拡大するなら、やはり日本は日本である。なんかそれでもいいような気がする。閉じずに開かれていながらにして、やはり日本である。ただ、私は何となく確たる故郷がない。永遠の「たびんちゅ」的な感覚をつねに感じている。どこにでもたぶん住めるが、傍観者でありつづける。故郷を明解に持てる人を羨ましいと思う事がある。だから「日本」という国に対する感覚も、自分の中の位置が実は判っていないのかもと思う時はあるなぁ。